通ってる、通ってない

チョコプランナーという番組の企画の1つで、(※春に番組終了してしまったようです)

「通(とお)ったことないサミット」というものがあります。

これはどういったものかと言うと、

あるテーマ(例えば漫画作品とか)を“通ってきた”人と“通ってきてない”人とに分かれて、

通ってきてない人側がどれくらいそのテーマについて内容を予想できるかということを面白がったり、

通ってきている人側がいかにそのテーマが面白いものかを教えるといった構成になっています。

“通る”という言い方はいつからあるのでしょうか。

気づいたときにはありましたが、

言わば「ハマったことがある」「ちゃんと知っている」

みたいな意味なのかなと思います。


あるテーマについて詳しい人と無知な人を対比して、

語り合わせるだけでとても面白くなるんですね。

チョコプランナーの「通ってないサミット」も、

ラランドのYouTubeの「◯◯知らないサーヤ」も、

結局アメトーーク!でやられてきた構図に似ています。

相手はなにやらよくわからないことについて熱く語っているんだけど、

コアすぎて全然伝わらない、みたいな。

大体司会の蛍原さんは「知らない側」なので、(本当は知っているけど司会だから知らないフリしてるときもあるんだろうけど)

でもなんか面白そうだから見てみようかなと言うときもあれば、

あるいは全く興味が湧かなくてちょっと引いていたり。

通ってきてる人からしたら「なんでこんなに面白いものをスルーして今まで生きてこられた!?」という気になってくるところもあったり、

単純にまだその世界を知らない人に対して「ほら、面白そうでしょ」と教えること、誘うことの快感みたいなものもあったりするようにも見えますね。


「通っている」ということは人生において結構使えるんですよ。

ワンピースをちゃんと通っているから同世代に置いていかれないわけで、

ドラゴンボールもちゃんと通っているから上の世代にも合わせられるのです。

ちょっと極端な例だけど。

カウンセリングにおいてもクライエントが好きなモノについて、

カウンセラーか少しでも知っているということはとても有効だと思います。

いまの10代なんて(いや、小学生でも)本当にツイッターよりもインスタ、インスタよりもtiktokを見ていて、facebookやmixiの話をしても彼らにはピンとこない。

(ツイッターも死語になっていくのでしょう)

だからtiktokでいま何がバズっているのか、ネットミームとはなんなのか?

なぜそもそもショート動画を好むようになっているのか。

このあたりのことを、ある程度知っていないと彼らとうまく繋がれないという感覚があります。

もちろん彼らと全く同じセンスでリアルタイムで流行を受け取ることはできないのだけど、

「この人意外と知ってんだな」と思わせることは結構ラポール形成に役立つような気もしています。

“なんでも知っておいて損はない”

これは以前まで結構大事にしてきたことで、

なるべく興味のない情報でもシャットアウトしないようにしていました。

ただ今は、普通に生活していても情報過多なので、どうしてもある程度選別していく必要がある。

いや、気づいたらAmazonもYouTubeも自分用にカスタマイズされたものが流れてくるので、

自分で選別してるつもりなくても勝手に見てる世界は狭くなっていっているような感じもします。

そうするとやっぱり網羅的に流行りものを「全部通っておく」ことは難しい。

だから結局、他世代の趣味には完全にはついていけないし、

クライエントから出てくるワードも、「聞いたことすらないぞ」というものも多い。


しかし、「通ってない」ということも同じくらい大事な気がしますね。

関係性の展開に余地があるということだから。

アメトーーク!でもチョコプランナーでも、

先に述べたように「通ってる人」と「通ってない人」の掛け合いが面白いんですよね。

通っている人だけで集まるとそれはそれで同好会として盛り上がるのだとは思いますし、

絆も強いわけですが、内輪で楽しんでいるだけになりかねないというか、あまり新しいものは生まれないかもしれない。

しかし「通っていない人」が目の前にいることによって、「通っている人」は色々思うわけですね。

なんでこの人には分からないんだ?あぁ、そんなところに疑問を持つんかい。もっと教えたい...など。

その中から新しい発見があることもあるでしょう。

大好きなはずなのにうまく説明できないということに気づくかもしれません。

カウンセリングにおいては「知らない」ということはむしろマイナスではなくて、

(なんでも知っておいて損はない、ということと矛盾するのですが)

この「知らないカウンセラー」に自分の体験をぜひ話してみようと思ってくれることは特別な意味を持つような気がします。

お互いに通っていることの共有と、どちらかが通っていないことの探索。

このどちらもが二者関係の展開において重要なのだと思います。


さらに、「誰も通ってないようなところを通る」ことも無駄ではないと思います。

それは個別性を生きるということであり、

大きく言えば自分の人生を生きるということは自分にしか分からない物語があるということでしょうから。 

ハリソン山中の言葉を借りると(最悪な例ですが)“最もフェティッシュなやり方”を追求することも良い。

ぶっちゃけよく分からないけどとにかくあなたにとっては大事なのね、という尊重の姿勢はなくさないようにしたいものです。


最近、あの映画も観たい、この本も読みたい、という欲がありながら、

なかなか仕事と育児がある中でそちらに時間を割けていません。

時間は有限なので、残りの人生で観れる映画も読める本も無限ではないということを考えさせられるようになってきました。

夏休みは少し時間が作れそうなので、

インプットしたいものをリストアップしておこうかなと思います。

まぁ、なんだか贅沢な時代ですよね。




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