世界か自分の方か

東畑開人さんが令和の深層心理学入門という連続講義でユングという人物について解説する中で、

「全体性の欲望」というワードがあった。

これを聞いた時、あぁそうかと思った。


私は昔からどんな物事に対しても、

瞬間的には楽しく感じたり悲しく感じたりするけれど、

すぐにそれは一側面でしかないと思い、

その事とは正反対のことが気になり、変に冷めてしまうところがあった。

高校時代を思い返すと、教室で自分たちが笑っているときには、頭の片隅で誰かが笑っていないことが気になった。

成人してからもずっと明るい自分と暗い自分が併存していて、

自分はこういう人なんだと思いたくても他方の自分がそれを簡単に肯定してくれなかった。

私の社会的な面だけを見て評価してきたり好意をもたれたりすると、分かられたくないという気持ちが強く働いてそこから逃げ出したこともあった。


つまり偏りへの恐怖がずっとあったのだと思う。

新興宗教的なものに対する強い嫌悪感もそれに関連していたかもしれない。

世の中が偏っているものに見えた。

でも偏っているのは自分の方ではないかとも薄く気づいていて、世を嫌うことと自分を嫌うことが目まぐるしく反転していって、

それがとても生きづらかった。

BUMP OF CHICKENの一番多く聴いていた曲の歌詞で「汚れちゃったのはどっちだ 世界か自分の方か」という箇所が妙に好きだったのはそういう自分の生きづらさが背景にあったのかもしれない。


実は今でも偏りへの恐怖みたいなものは続いているように思う。

医療の現場でも教育の現場でもしばしば偏りを感じる。

同じ背景や知識を持った者たちが集まる以上、当たり前なのかもしれない。その偏りによってエッジの効いた発明が起き、様々な分野で専門性が発展していったのだろうし、それらによって救われている人々がいる。

私自身、医療の目で支援するときも教育の目で支援するときも、なんだか“やってやった”気になる。

つまり患者が治ったら嬉しいし、生徒が何か得たら嬉しい。

しかしやはりそんなに単純ではない。私は医者でも教師でもなかったということに夜寝る時には気づいてしまう。

そしてその時には“やってやった”感は消え、

自分は心理士として正しいことをしているのかという迷宮に入っていくのだ。


私にとって心理士という仕事は基本その連続なのだが、

毎日迷宮にいたら体力も精神力も持たないので、

ある程度キャラクターを演じ分けて就業するしかないのである。


全体性への欲望。

きっと私もこれを持っているのだと思う。

20代半ばのとき平野啓一郎さんの分人主義に共感したのも、

あらゆる自分を生きていいと許された気がしたからだろう。

どれかひとつを選ぶ必要がないと考えたら楽になった。


世界の方はどうか。完全にバランスのとれた世界なんて完成することはないのかもしれない。

汚れちゃったのは、世界か自分の方か、という歌詞はやはり今でも好きだ。

でもどちらかといえば自分の周りの方が掃除しやすいのではないかと思うようになってきた。

これが自分にとっての、年齢を重ねるということの意味だったのだろうか。


偏りきって汚れているように見えてもそれは誰かにとっては過ごしやすいところかもしれない。

でもやはり過ごしにくそうにしている人もいるのだ。

カウンセラーとしてあるいは心理士として、

そういう人と日々会っていくことの意味を改めて考えていきたい。

自分もまた生きづらさを抱えながら、

この世界で地に足をつけて生活していくために。



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