涼しさと共存

考えてきたこととか、
一生懸命に信じてきたこととか、

いったん全てをリセットしたいような気持ちになってきました。

ただ、突然に何もかも捨てたくなるのはいつものことで、
特性なのか、性格なのか、はたまた雨のせいなのかよく分かりませんが、とにかくそんな時期です。

論理的に書くつもりないです。


別に自分には何の事故も事件も起きていないのですが、この一週間くらい特に、考えさせられることが多い。
腑に落ちないこととか、失望するような気持ちになったりとか。世の中の揺れ動きが、チカチカと目に入ってきます。
それ自体は実はさほどネガティブなことではなくて、思考するだけの力が戻ってきた証拠かもしれません。

やはりCOVID-19という現象が一番大きいですが、今年は地球全体にとって大変な年です。ウイルス関連、それ以外のことでもショッキングなニュース、災害も続いています。

色んな問題が挙がってきていて、
でもそれらの問題の根っこ・本質がもっと深くにある気はしています。その本質とやらが掴むのが難しすぎるもので、それで世の中が混乱してるような感じに見受けます。

色んな問題の中でも目に付くのは、
現代人が陥ってる批判中毒とでも呼ぶべきものでしょうか。ある人は正しさ依存症と表現していましたが、
正解を主張し合って、互いに傷ついてる人たちがいる。
よく調べもしないままに叩いたりする。
叩く権利があると思ってる?
それすらも表現の自由?
その問題から、いまだに脱却できない社会?
そのことにもう、うんざりしてしまう。

決めつけ、キライ


...と、思ってたんですけどね。
でもなんかよく分からなくなってきました。


人間はどこまでも主観的に生きているということとか。
社会の中で一人一人が自由でいれることの困難さとか。

・・・うーむ

なんか最近、そんなことを考えざるを得ないでいます。

他者の眼差しから自由でありたいんですよね。
さらには、過去の自分からも自由でありたいんです。

強くあらなきゃならないとか
迷惑かけずに周りに適応しなきゃいけないとか
すべては自分の責任だとか
立派でいなきゃいけないとか

そんな自分への思い込みからも自由になりたい。
フツーに、弱いし不適応的だし環境のせいにするしだらしないし。時にはね。いや、だいぶ。
でも矛盾を抱えていても許したい。
心に一貫性がなくて
不安定であっても受容したい。

着地点見えないまま、
書いてみます。






あぁ、クソみてぇな世の中だ。
俺もまたクソみてぇな人間だ。


という思考の沼に片足つっこんだときは、
頭の中で千鳥のお二人に、
ちょっと待てぃ!ボタンを押してもらう。

ちょっと待ってみると、世界なんて殆ど分からないことだらけだと、分かる。
世の中が大変なことになっている!
というのは、真実なのか分からない。この情勢ですら、それはあくまで自分の主観であって、もしかしたら自分こそ、正解ありきで社会を決めつけてるのかもしれない。

嫌いな行為のはずなのになぁ。

そんな自分の中にある、レッテル貼りというのか、偏見というのか、とにかくそういう性質を誰かに投影して、鏡に映る自分が醜い。


ただレッテル貼りとか偏見とか差別とか、
本質的にはそれは、区別するとか境界線を引くということなのだと思うようになった。

と述べることで、誰か傷ついたらごめんなさい。しかし書き続ける。

これに関しては去年からしばらく、ぼんやり考えていたことだけど、
秩序を保つためには、人と人の間に境界線は必要だという考えに至ってきた。
だから今の私は昔より、他者の持つ偏見だとか、決めつけだとかに少し寛容になってきた気がする。

相手が傷つくことを分かっていて境界線を引くのは、もちろん卑劣な差別で嫌いだが、
実はそんなに境界線を引くということ自体には罪は無いんだろうと思う。あくまで自分の頭の中の話。

というか現実問題、そうせざるを得ないことばかりなんじゃないか。

境界線を引くという言い方は抽象化しすぎか。例えば、私とあなたでは性別が違うとか。年齢が違うとか。出身が違うとか。専門が違うとか。私はこれが得意であなたはそれは苦手だとか。
当たり前のようだけどそういうレベルから、線引きしてる。

実際にそこには違いや差があるのだから、
何かの目的のために線を引いている。

というか、いつしか線を引いた。
自分が引いたのかもしれないし、誰かが、あるいは社会全体の空気が引いたのかもしれない。そのことを、私たちは意識しなくなってしまったような気がしてならない。


たぶん、ある程度は仕方ないことだ。
多様な個性を持った生物たちが、限られた資源を共有して生活する限りは続く気がする。境界線を引いた方が合理的なことが多いから。

大事なのはむしろ、
境界線を引いてもいいけれど、
線の向こうの人を支配しないようにすることだと思う。

変わることを強要しないこと。
変わってほしいと願ってもいいけれど、
その人はその人だ。
自分が自由でありたいなら、
相手の自由も認めていく必要があるように思う。

『嫌われる勇気』で、
馬を水辺に連れて行くことはできるけど、水を飲ませることはできない
的な言葉を読んで、そのときかなりしっくりときて、今もたまに思い出す言葉となった。

課題の分離というやつだ。
うーん、そうだよなぁと。

ついつい、
他人の課題にあたかも自分の課題かのように手を出してしまうことってあるよなぁ。
これ、私はこう考えるよ。まではいいんだけど、だからあなたもそうした方がいいよ、っていう流れ。
これは押しつけとか課題の横取りと言えるのかもしれない。
感じたり考えたり行動したりするのは自分じゃあないのに、無自覚に境界線を飛び越えてしまう。

こんな水辺があるよ、この水おいしいよ。
って紹介することは出来ても、
無理矢理、相手の手足を縛って口あけて飲ませることはできない。
飲んでくれたとしても、あまりに合わなかったらその相手、嘔吐するかもしれない。

そのとき、
ワシの好きな水、なに吐いとんじゃコラァ!
って言うことってめっちゃ勝手だわな。

ちょっと待てぃ!と。
そりゃ、好き嫌いあるわな。
私とあなたって違うよね。
無理に変えなくてもいいよね。
だからお互い自由でいようやっていう。
あえてそこには意図的に線引きして、
パーソナルスペースを互いに確保する。

そういえば、
その『嫌われる勇気』の著者の岸見先生が
100de名著で言っていた表現も好きだった。

司会が「それってなんだか冷たい関係のようにも思えますねー」と言った後に、

「冷たい関係じゃなくて、
涼しい関係なんです。」

って。
この涼しい関係というのが、
批判中毒から脱却するヒントなんじゃないかなと睨んでいる。


ここ数日、思っていたのはそんなこと。

答えがなければないほど、
自分の答えと違う人は怖いから線を引く、という一面もあるんだろうと思う。正体が分からないのって、不安になるからなぁ。

分からない状態のままに少し留まって、
あれ?何なんだろうこれ?この問題の背景ってどんな事情あんの?って考える時間を私は重要視する方だけど

いつかはやっぱり線を引いて、
対象を理解する必要があるかもしれない。
例えば近しい関係性でその人と今後も付き合っていかなきゃならないとか
ずっと解決できていないトラウマとか。

解るっていう漢字の中には刀が入ってる。
切り分けること
それはコミュニケーションの一つのあり方なのだと。

自分と他者を切り分けていいと思う。
相手は自分とは別個の存在であると見ること。案外それが、理解するということの元々の意味合いなのだろうか。

分からないものを切り分けて、
距離をとる。
その切り分け方は主観になる、確実に。
たとえ客観的な指標がいくつかあっても、何を選ぶかどう解釈するかは主観だ。

でも別に、主観でええ。
そして、相手の主観も尊重しよう。
綺麗事かね。
そうは言っても相手の方から支配されそうになったらどうすんの?
あと、他者の変化を期待してはいけないの?
ってことになるけど、
侵入を防ぐ守備力、支配を拒む勇気と
期待通りにいかないときに無駄に争わない穏やかさが要るんだろうなぁ。

分からんけど。

ちょっと待てぃ!
それも、人それぞれか。

次に考えるのはそこなんだろうな。

ふむ。

適切な心のディスタンスを取りながら、
共存したいという水があるのですが、
一口いかがでしょうか
という話でした。

ではまた。





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