ストローク
心理臨床って何だろうか。
先日、『鬼滅の刃』の映画を観に行った。アニメ映画を映画館に観に行くのは多分、2013年の『風立ちぬ』以来だと思うのだけど、院生仲間とレイトショーで行ってきた。ふつう自分ではわざわざ観ないなぁと思うものでも観ておくと、何かに役立つかもしれない。…役立たないものもある。
自分より一回り下とか、半分ほどの年齢の子どもたちと話す機会がある。
彼らにとっては、知的な会話だとか、改まった内省なんてことよりも、
ただテーマを共有して誰かと雑談することの方が大事だったりする。
これまでの人生で馬鹿みたいに時間を費やして映画とかお笑いとか音楽とかに接してきたことが、彼らとのコミュニケーションに役立つ瞬間がある。“何が好きなの“と訊くよりも“それ面白いよね”という方が入っていきやすい。と思うと、無駄な経験なんてあってないようなものなのだろう。
コロナのおかげで、4月からおよそ半年間も大学へ行けないという修士2年目だった。
2年間で関わったケースは両手で数えられるくらいだけれど、少なくはない思う。
アメリカのサイコロジストは、基礎をしっかりやってから専門領域を選んでいくのに比べて、日本の臨床家の教育システムでは基礎を飛ばしていきなり専門領域を選ぶような傾向があるらしい。精神分析をやるにも認知行動療法をやるにもベースが出来ていないといけないという。料理の基本を一通り学んでから、自分はイタリアンをやろう、中華の料理人になろう…とかいうのではなく、最初から寿司職人になろうと決めて寿司屋に弟子入りするようなイメージだと。
...という意味では、うちの大学は基礎の方を割としっかりやっていた方な気がする。例えばケースのスーパービジョンはどの先生に依頼しても良い。流派に偏ること無く万遍なく吸収しろという意図が感じられた。反対に、なんとか療法を学びました、ということは言えず、オリエンテーションは何ですかと問われたら困る。
基礎といっても答えがあるようなものでも頭で理解するものでもなく、
支持の姿勢とか治療構造とかTh.自身の自己理解とか見立てとか倫理とか、そういったことをうるさく言われることで身体に染み込ませていく。多分(あたりまえだけど)2年前とは割と価値観が変わった。
心理臨床って何なのかと考える。
どうやら、「聴く」という行為には温かみが、「訊く」という行為には想像力が、「居る」という行為は自然さが要るということが分かってきた。
「受容」と「共感」については実のところ未だよく分からない。
言葉になっていない非言語的な情報に気づくセンスもなさそうである。
それらは理論や知識や技法以前のもので、人間性がもろに出る。
だからこそシビアなのだと思う。うまくいかなかったときに自分の人間性を責めてみるが、
本当は人が立ち直っていくのに占める他者の助けの力なんてたった一部でしかない。
ただその一部の助けが、その人の持つ自己治癒力を引き出すのなら、関わる意味はある。
気がする。
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