恩師への祝辞と感謝/『「見る」意識と「眺める」意識』

拝啓

上田先生へ。


この度は書籍を贈っていただき有難うございます。

先日、大学院事務室から受け取りました。


日本心理臨床学会の奨励賞を受賞された時も、教え子の一人として誇らしく想いましたが、

単著で本を出すと聴いたときもまた、心より嬉しく感じました。


「本を出す」ということは、

それが学術書であれ、小説であれ漫画であれ、何かしらのハウツー本であれ、

どのような形式であったとしても、

書くことが好きだった私にとっては、実は昔から憧れの世界です。

それこそ、“あちらの世界”のように意識していたかもしれません。


すでに一度読ませていただきました。

感想として適切な表現かどうか分かりませんが、

“納得のいく”、でも“難しく”、“味わい深い”本でした。

先生の研究室に何故石が置いてあったのか、
学部の頃から、その意味をこれまでずっと不問としてきましたが、
この本を読んで伝わってくるものがありました。


私は元々、理系ということもありますが、

論理的に考えることが割と得意な方だったのだと思います。

それは特性なのか、最初に理系という環境に置かれたからこそ後天的に育ったものなのかは分かりませんが。

理数系の学問では、<曖昧さを消していく>ということが大事なのだと思われます。

しかし、今私という個人や社会が抱えている問題の多くは、論理的に説明できるものではなかったりします。

数学や物理が“好きではない”のに“得意“。国語や社会が“好き”なのに“苦手“。

思い返せばそんな矛盾を抱えた高校生だった私にとって、

「見る」と「眺める」は、今、どちらも親和性の高い言葉です。




物書きの意識


近頃ずっと、

自分の矛であり盾でもある「書く」ということについて、深く考えています。

曖昧模糊とした「こころ」を裏から表に現すために、

私は今日も言葉を用います。


最近は、文学的な表現に挑戦し始めました。

先生との出逢い、貸してもらったロジャーズの本との出逢い、

ユングや河合隼雄の考え方との出逢い、病との出逢い、…

これまでの人生の様々な体験を物語ることによって、

物書きとして今表現できる最上のものを創作しました。

そして、創作することで、自分で自分を“いったん治した”感覚さえあります。


どうやら私の中には“創作家”としての人格が棲んでいるようです。

創ったものが他者からの評価を受けるかどうかは別の話ですが。

『二十八』は、自分の人生や体験を「もの」として見るだけでは書けなかった作品とも言えます。

“書くことは生きること” きっとそうなのでしょう。

“生きるために書く”と“書くために生きる”がときに、反転しながら。

そしてときに、“書くと生きるがぴったりと重なる”ような体験を積み重ねながら、

私は来年の今頃も、何かを書いていると思います。



臨床家の意識


最近読み進めている、土居健郎の『方法としての面接』に、このような箇所がありました。

Marguliesの論文の中で引用されている詩人John Keatsの考えが大変面白い。
それは彼がnegative capabilityと呼んだものであって、
「不確かさ、不思議さ、疑いの中にあって、早く事実や理由を掴もうとせず、そこに居続けられる能力」のことである。Keatsはこれが詩人にとって必要不可欠の能力であると説いたのであるが、しかし詩人にとってと同じくらい面接者にとってもこの能力が必要であろう。 (p.36)


すぐには言語化出来ない「こと」に直面した時、
不確かさの中に居続ける能力というのは、

ときに“生きること”に居続けることへの助けとなるのかもしれません。



まだ私がしっかり考察できるには程遠いですが、

・Sullivan.の「関与しながらの観察」

・Freud.の「平等に漂う注意」

・自律訓練法における「受動的注意集中」

・昨今のマインドフルネス系のCBT等における「Doモード」と「Beモード」

このあたりの概念は、
注意を向けながらにして、その態度は能動的・積極的ではなく、極端な受け身でもないという、一見矛盾を抱えたように見えるという点で、根底に共通するものがある気がしていました。


ここに「眺める」という態度のあり方を重ねて考えてみることで、
また考えるだけではなく実践や経験を通して、何か掴めるものがあるような気がしています。


また、

p.116からの「Jung.C.G.の「補償」との異同」という節で、

意識体系の“垂直方向”と“水平方向”に関して書かれていた箇所を読んだ時、

なにかハッとした感じがしました。

その“ハッとした感じ”は、それこそすぐに分かるものではなく、

ぼんやりと留めておきたいと思います。



ツッコミの意識


私が昔から好きな「お笑い」という文化の中にさえ、

「見る(分離して、はっきりさせる)」という機能を感じることはあります。

ある芸人に言わせれば、「笑いというのは、“差別”」だと。

その発言自体は誤解を招きそうで、極端すぎる気もしますが、

実は「区別する」とか「偏見」は、笑いの本質だと私も思うことがあります。


漫才には、ボケとツッコミがいますが、

ツッコミとは、突き詰めていくと「区別する」ということと繋がっているように思います。

「なんでやねん」の前提には「それはおかしい」「普通ではない」ということがあり、

“ボケ”は、ツッコミや観客に見られることで初めてその世界で“異質なもの”となる。

多くの漫才は、スタンドマイクを挟んだ相方側の言動をツッコミが“区別する”ことで、

その次元にズレ・亀裂を生じさせ、おかしなコト、すなわち可笑しなコトを演出し、

笑いが生まれる。


ただ近年の漫才は、(やすし・きよしの時代と比較して)

ボケに対して、はっきり分けずに接するツッコミのあり方もあるように思います。

また、最後には強くツッコむとしても、あえてボケを泳がしておくという技法も多くの漫才で度々見られ、そこには、

<すぐには分けずにある程度眺めておく>という意識のあり方に通ずるものがあるような気がします。

違和感のある動きをする相方に対して、“不思議がる”という時間の存在です。

そしてその間は、観客もまた“不思議さの中に居続けて”おり、そのようなときには爆笑は起きず「クスクス」「ざわざわ」などの爆笑前の静かな笑いがあることが多い。

そこには「これは一体何なんだ?」という種類の「オモシロさ」があります。


・・・と、

ちょっと飛躍して考えすぎかもしれませんが、

ともかく「見る」「眺める」という2つの意識のあり方があると知ることで、

何かを語る際の視点の数やバリエーションが豊かになる、と感じたところでした。



本書は、

これから何度も「心理療法という営みの本質」を考える度に、

あるいは心理療法という枠組みを越えた、社会や世界への視点を持とうとする時、

私に深い気づきを与え続けてくれることを確信しております。


・・・と、祝辞というタイトルにしてしまったので堅苦しく書いているわけですが、

ともかく、本棚の一角に、お世話になった方の名前を加えられることは、

読書を愛する私としては他に代え難い体験です。


重ね重ね、御礼とお祝いを申し上げます。


敬具



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