心理的支援のこと~自分はいま何をしているのか~
心理的支援と言っても様々だ、と考えた話。
《自分はいまなにをしているのか》を意識し続けることの意味について。
介入効果で考える
人に関わっていくといっても、いろんな仕事があるのだなぁと思う。
-2を-1にする関わり
-1を0にする関わり
0を1に、1を2にする関わり
そして案外、0を0に留めるということも重要な仕事だったりする。
そして案外、簡単なことではない。
放っておいたら-3まで自分で落ちていく人もいるから。
誰かに関わっていくと言うとき、
自分はいまその対象のどこに関わっているのか
対象は個人だけじゃなくて家族、コミュニティ、ひいては社会全体になる。
自分自身もいれていいかもしれない。
誰もがこのうちの何かに携わっている。
心理だけでなくどんな仕事もそういう観点で見ることが本来できるのかもしれない
でも忙しすぎるといま自分が一体何をしてるのか意識できなくなっていく。
すると、「やりがい」とか「目的」なんてことを考える余裕は当然なくなっていく。
本当は誰だって0を1にする未来を描きたいけれど、
0のままにするだけで精一杯ということがある。
高校物理にはこんな綺麗な正弦波というものがある。
人生にも波があるが、普通はこんなに綺麗ではなく突然に上がったり突然に下がったり、
山も谷もない人生なんてあまり聞かない。
ずっと幸せというわけにもずっと不幸というわけにもいかない。
医療の仕事というのは、
基本的には-1を0にすることだと思う
中には自分の意志ではなく連れてこられる患者もいるけど、
他の領域よりはニーズが明確で、
介入方法もマニュアル化されている方だと思われる。
患者を「~病」「~障害」と分類し、原因をつきとめ、治療していくために診断をつける。
そしてなるべく短期的に治療して社会に返したい。
精神疾患の場合は原因を正確につきとめるのは困難な場合も多く、
原因ではなく症状で分類していく。DSM-5という精神疾患の診断基準は、いわば症状のチェックリストのようなもので、患者の《現在》を問題にして、《過去》は言及されない。
この「分類」とか「短期的」というところが、臨床心理のスタンスとは相容れないことがある。
現在の症状だけでなく過去の外傷体験、家庭環境の要因、性格傾向、対人関係の特徴・・・等、人間としての側面を全体的・多面的に見立てる。当たり前のようにそれぞれの人生には個別性がある。そして、根深い深層心理まで切り込んで治そうとするのには時間がかかる。
しかし近年では心理的支援の中でも認知行動療法やブリーフセラピー(短期の心理療法)が活用されている。
これは医療が持つ“治療モデル”に近接していっていることを表してもいる。
うつ病のための認知行動療法、
不安障害のための認知行動療法、
PTSDのための・・・、
というように特定の疾患へのアプローチの手順が確立されているように、
症状に対するアプローチであり、うつ病には抗うつ剤を処方するといった薬物療法とイメージが重なる。
薬物療法と心理療法のどちらかをやれば必ず改善するわけでもなく、
両方を組み合わせても改善しないこともある。
専門家が介入したことで-1が0になったのか、+1になったのか、現状維持なのかどうか、
これを振り返りながらでないと漫然と関わるだけになってしまう。
介入効果の評価をすることは患者と治療者の双方にとって重要なのだろう。
対象の発達段階で考える
もうひとつ、《自分はいまなにをしているのか》を考える観点として、
発達段階から考えることもできる。
成人を相手にしているのか、児童を相手にしているのか。
細かくは幼児期、学童期、青年期、成人期、壮年期、老年期とか言う。
成人すると、一般的には性格特徴は固定化されていく。
生きづらい性格が形成された成人が、苦しみから逃れようとその性格を変化させようとするのは相当な努力が要る。
それに比べて子どもという生き物は、変化が激しい。
人生の初期の体験がその後の人生に影響を与えると考えると、
他者への信頼感や安心感、社会に対する希望を感じさせることは大人の使命のように思える。
現実は、このコロナ禍で、子どもの自殺が増えた。
疲弊しているのは大人だけじゃない。センシティブな若者は、大人が想像するよりももっと、社会が抱える構造的欠陥とか自分たちを取り巻く状況に気づいているから、
なめたらあかんと思う。もっと労って敬って優しくしないと。
個人的にはどうも、根拠のない希望を説教じみて語りかけるよりも、絶望に共感していく方が中期的に見れば救いになる場合があるのではないかと感じる。それは自分がそうしてほしかったからそう感じるだけなのかもしれないけれど。
生きている時代が違うのだから、大人の価値観が通じないのは当然のことだと思う。
他の発達段階よりも若者時代の方が大事、ということではなく、
どんな発達段階にあり、どんな発達課題を抱える相手に関わっているのかということを意識する必要があるのだろう。
そしておそらく、支援者自身の年齢や人間性もその関係性に大きく影響する。
これもまた、50代には50代同士が良いとか、この年代には…ということではなく、
それぞれの組み合わせには、違った意味があるということだと思う。
終末期を迎えた高齢者に対し、あえて孫くらいの年齢の人が関わるということの意味、とか、多分あるんだろう。
広い視野を持つ
一人の人間の状態が改善されることは、その周囲の環境にも影響を与える。
相談機関や医療機関に子どもが連れてこられた時、子どもが治っていくと家族ごと治るということもあるだろう。というより、本当は家族が抱えていた病理を子どもが肩代わりして<目に見える問題>として表現してくるということが多々あるという。
家族病理が続く限りは問題とされている人物もなかなか変化しない、となると、いつまでもその人物のみが悪者にされるケースも有り得る。周りから見て、問題とされている人物が“かわいそう”だと感じる事例は、正直けっこうあるように思う。
個人の変化は環境の変化につながっている。
これはあまり実感が湧かないけれど、想像してみると確実に影響を与えている。
広い視野を持つ…なんて偉そうなことを言いながら、
これは視野がすぐに狭くなる自分への戒めで書いているようなところもある。
評価不可能な影響まで想像してみるというのは、最初に書いた「介入効果の評価」とは反しているのかもしれないが、社会は相互作用で成り立っているというのは一つの真実だ。
まだまだ素人同然だけど、
大学院で色々経験して、また、30年生きてきて、
そういう考えを持つようになってきた。
心理的支援…ということで書いてみたけれど、
やっぱりどんな仕事にも以上のようなことは共通するところはあるのではないか。
《自分はいま何をしているのか》
それを常に意識するのは難しい、が、意識し続けないままだと疲弊する。
高度経済成長期は多分、国自体に「成長」という目的があったんだろう。
不況の今、目的や生きがいを見つけていくのは、
自己肯定感やQOLを維持する上で、かなり逼迫した課題なんだと思うのだけれど。
ところで、ヒット中の『うっせぇわ』を歌うAdoが、現役高校生という驚き。
ラジオに出演した際、
「私が皆さんの怒りを代わりに歌うので、皆さんは明るく生きて欲しいと思います」
と発言したらしい。
格好良すぎる。
0から1を生み出して、
多くの人のマイナスを0に戻したりプラスにするのは、
いつの時代も芸術なのかもな。
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