居るという仕事

四月から新しい仕事を始めて3ヶ月弱です。
主に医療の領域ですが、毎日のように違う職場、違う仕事内容であるためか、1週間が過ぎるのが速く感じられます。


仕事の一つに精神科デイケアがあるのですが、デイケアでは、「何もしない」ことをするということの、何とも形容しがたい歯がゆさを感じています。

何もしないと言いつつ、散歩したりゲームしたりということはしているのですが、そこに直接的な治療としての介入はないわけで、だから支援者として何もしていないような気分になるのです。

しかしデイケアという場所の意義や、
利用者にとっての意味を考えれば、
必ずしもカウンセリング(積極的な聴く)のようなことをするのが良いわけではないのだと思われます。
カウンセリングと言えば“非日常”の空間であることが大切になってきますが、
デイケアではむしろ“日常”(=生活?)を取り戻すことが大切だったりします。
その点でカウンセリングとデイケアは、関わる側としても態度を変えるのが良いかもしれません。
支援者として、さぁ!このケースに取り組むぞ、という風にかしこまるよりも、
ただそこに一緒にいる人として存在することが間接的に癒しになることがあるかもしれないと考えています。
日常は日常でも、穏やかな日常をおくりたいものです。精神科デイケアにくる人はやはり穏やかに過ごすことが苦手だったり、症状がまだ不安定な人もいます。
そういう人にとって、〈自分より少し“何もしない”が上手いヤツ〉として映っていればいいのかもしれないです。
...まぁ、自分よりずっと歳上で何十年も前から居るような主みたいなメンバーの方々の方がよっぽど“居る”の達人ですが。


たぶん(これはカウンセリングの初期でも同じことだろうと思いますが)、
“害にならないこと”がすごく大事な基本なのでしょう。得てして人は、意図せず発する言葉や態度だけで無意識的に他者を傷つけているものですので、“害にならないこと”は基本でありながら案外と簡単ではない気がします。


『居るのはつらいよ』という本が何年か前に売れて、大学院生のときに借りて読みたいとは思っていたのですが、結局読まずじまいでした。

本は読んでいませんが記事は読んだことがあって、その中に書かれていたことで、きっとエッセンス的な一文がありました。
ケアとは傷つけないこと、セラピーとは傷つきに向き合うこと
ケアとセラピーの言葉の違いなんてあまり考えたことがありませんでしたが、
自分のやっていることが目の前の人にとってどんな影響を持つかという視点として思慮深いものがあるように思いました。

考えてみればいま従事している仕事は、
〈居る〉仕事や〈待ち受ける〉仕事、
〈ちょっと邪魔する〉仕事(?)とか、
〈伝える〉仕事とか、色々あるような気がします。

それにしても、居るは難しいし、結構つかれます。
散歩して雑談したりテレビゲームをする。きっと忙しく働いているサラリーマンからしたら本当に何もしてないように見えるかもしれませんが、一応これも仕事なのです...。

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