平和と停滞
結論の無いことをだらだらと。
気分の静けさと引き替えに感受性を失ったような気がする。あまり映画を観る気にならないし、世のニュースにもあまり興味が湧かない。一言で言えば、刺激を求めていない。
昔と比べて、の話である。
20歳前半のときは、
足し算をしていたのだと思う。
何者かになるためには自分に足りないものを埋める必要があるように思ったし、人より特別でありたくて少しでも多くの物事に触れなきゃいけないような気がして焦燥感に駆られていた。常に不足を感じていた。
書店に行って無駄に教養本とかビジネス本とか買った時もあった。誰へのアピールだったのだろう。その時に学んだ気になったことはもう殆ど思い出されることはない。劣等感をごまかすために必死だったのだろう。
今は当時と比べて充足感があるとか実際に成長した、というわけではない。むしろ生きた分だけ多くの欠点を知ってきたし、色々と喪失したし、劣等感がなくなることはない。
でも、あまり埋めようとは思わなくなった。
悪く言えば、向上心が無くなったような、味気ないような。自分という人間に対して期待するのをやめたような。
あきらめたら試合終了ですよという言葉が響かない。とっくに試合から降りてしまったからなのだろうか...。
試合というのはつまり、
自分と向き合うこと、自分の人生を生きることである。
現状の自分に足し算したいのか、引き算したいのか、これは加齢とともに変わっていくのかもしれないし、性格や環境に依るのかもしれない。
足し算に対して引き算とはどういうものなのかはよく分からない。
多分、不要な人間関係とか、しがらみとか、自分を意味なく傷つける考えとかから自由になること、過去を清算することに近いんだと思う。
もう足し算ではなくて引き算しなきゃいけないような気がしているけれど、それに取り組む準備ができていない。
---
感受性は失ったわけではなくオフにしてるだけかもしれない。
感受性のスイッチをONにしたまま生活するのは疲れる。経験から、いつのまにかそんな価値観が身についてしまったようだ。
人の精神を相手にする仕事だから、気づかないうちにも影響されているはずで、なるべく私生活は省エネでいたい。自分の心のキャパを空けておきたい。
そのために、生活範囲は狭くなっていく。
味気ないけど、一応はそれで日々が過ぎていく。
頑張らない ということを自分の守り方と捉えるか、怠惰であり罪であると捉えるか、
またはどちらでもあるのか。
結論は出ない。
自分を甘やかすということと自分を肯定することの違いを説明するのは結構難しい。
適度にストレスをかけないと人は変わらないことも知っている。心の危機はときに人を殺したり、乗り越え回復したときにはしなやかさを与えてくれる。
どうせいつかその時は来るのだから、
つかの間の平和を享受したいと言うことも、
それほど卑怯な行為ではないのではないか、
と思っている。
0コメント