回避と甘え
精神医学に甘えという概念は無いと言われますし、
そのことは理解しているつもりなのですが、
どうしても回避的な傾向のことを甘えと呼びたくなってしまうことはあります。
日常生活であれば良いのですが、
カウンセラーとしてクライエントに接するときに“結局のところこの人は甘えているのではないか”という気持ちが出てきてしまうと、
おそらく無意識的に話を聴く態度や眼差し、かける言葉の中にうっすらとその気持ちが紛れ込んでしまうのではないかという懸念があります。
“甘えるな”という声なき声に苦しんできたクライエントに面接室の中ですら追い打ちをかけてしまうと、治療関係に何か影響が出そうな気がします。
自分で自分に対して甘えていると思うことが多いので、他者に対してもそう思ってしまうことがあるのかもしれません。
そういう意味ではクライエントの問題ではなくカウンセラー自身が向き合うべき認知なのかもしれません。
物事を前向きに考えられるようになった割には行動に起こさない
理想を語る割には現実については語らない
一見、主訴や表面的な精神症状が消失したように見えるのですが、
何か大切な部分が隠れたまま、未治療のまま進んでいっているような感覚を持ちながら話を聴いていることがあります。
治療契約や介入方法によっては、
それでも良いのかもしれません。
簡便な認知行動療法や短期療法と、精神分析的心理療法では踏み込む深さと期間が異なるので、
“どこまでやるか“については様々か考えがあるのでしょう。
元々の解決像には近づきつつある。
なのにどこか手応えがない、という感覚。
安定期のような、停滞期のような。
この感じは一体なんだろうと、最近考えていることです。
カウンセリングは一生続くわけではなく、
こちらは終結(別れ)を意識しながらやるわけですが、
ここで“この人は甘えさせてくれる”という関係性が築かれると、
それは別れにくさにつながるような気もします。
人は、護られたままでは旅立てないという一面を持っているのかもしれません。
聴くという仕事は、
クライエントの準備性が整うその時をひたすら待つということでもあろうかと思うのですが、
ではその時がいつなのか、
どこで背中を押すべきか、
それが見極められないうちはもどかしさが続きそうです。
カウンセラーにとってこういった感触は探索的なカウンセリングにはつきものでしょうか。
その曖昧さに耐えうる器が欲しいものです。
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