精神科臨床を振り返る
大学院を修了して一年経ちました。
毎日のように違う職場へ行っていたので一週間はあっという間で、一年もあっという間でした。
仕事の中でもクリニックの仕事は自分の中で特別で、カウンセリングという、いわゆる心理士っぽい仕事が出来ている職場です。
最近はケースの数も増えてきました。
始まるケースもあれば終わるケースもあります。一年ですらそれを体験するのですから、
これから臨床心理士として臨床を続けていくのだとすれば幾つもの出会いと別れがあるのだと予感します。
ケースとは、人生の一時期をともにすることだと言っていた人がいました。
たった人生の一時期、それが終わってもその人の人生は続く。人生は終わらなくてもケースには終わりがある、のだとすれば、私が取り組んでいるこのケースはいつどうなれば終われるのだろう。と考えたりします。
学校や大学のように、“卒業“がない医療機関では、“終わり”を見失いやすいのかもしれません。
思えば、終わりが見えないことに疑問やもどかしさを抱きながら過ごした一年でした。
もちろん良い方向に変化したケースもあれば、
いったりきたりでぐるぐるしているケースもあれば、
カウンセリングによって悪化したのではないかとすら思えるケースもありました。
ひとり職場というか、
同じ曜日に別の心理士がいることがないので、
基本的にあらゆる心理士としての振る舞いは自分で決めていくことになります。
主治医とはコミュニケーションをとりますが、心理士としての振る舞いは自分に責任があります。
自由でありながら、ひとりの判断だと視野狭窄になりやすいなとも感じます。
幸いにも今年に入ってからSVやケースカンファレンスを設ける機会ができたので、
そのときは色々と気づくこともできました。
そんなことで、もやもやと悩みながらもケースと向き合ってきました。
そのもやもやの正体のひとつが、終わりの見えなさ、でもあるのですが、
もしかしたらそもそも終わりはカウンセラー側がコントロールするものではないのかもしれないとも思い始めました。
だからと言ってクライエントが去るのを待つだけではいけないというところも難しい。
精神科臨床は色々考えることが多くて面白いと思えています。
医療の根本とは何だろうか、そして、
その中で心理士としてどのように患者を見るか。
必ずしも終わりは必要なのだろうか。
命をつなぎとめている、ただそれだけでも意味があるとは思っているのですが。
カウンセリング依存にさせるなと習ったからこそ、葛藤ですね。
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