大嫌いな自分を受け容れることの難しさ


学校で何を学んだかというのは、
もしかしたら卒業時にはっきりと言えることではないのかもしれません。

後になってから、ああ、あの場所で得たものは、これだったのかもしれない。
そんな風に感じることだってあります。



ストレスフルな状況はまだ落ち着きそうにない、と2日前の投稿で書きましたが、
やはりその後にも、
死んでしまいたくなるような感情の嵐がありました。
本当に、このようにどこかに記しておかないと、勿体ないくらいの日々を過ごしています。

私が在学中、
生きる上で、これが大事なんだと思っていた心理学的に重要な概念があります。
それは、“自己受容”です。

文字通り、自己を受け容れるということなのですが、
これが常に出来ていると自信を持って言える人は、それほど多くはないと思います。

私自身はというと、
どうしても受け容れられない日が、
たまに訪れます。

ここ最近は、一日の間でも、
受け容れた、と思ったら一時間後にはやっぱり無理だ、とパニックになったりと慌ただしいです。

私の場合、自分を受け容れるということが難しいときには、きまって、次のような感情が伴っています。

“自分は存在してはいけない人間だ”
“自分はなんて弱く、罪深い人間なんだ”

自分への罪悪感、嫌悪感と言えばいいでしょうか。


前の投稿でも書きましたが、
自分が他者や世界に与える負の影響(としか思えない)に耐えきれず、
とっさに消えたくなってしまうのです。

そのように思い詰めた時、
どのように生き延びればいいのか。
これには、マニュアルのような正解はないかもしれません。


無理をしてでも、現状を変えずにいるべきでしょうか?
精神科や心療内科の外来へ飛び込むべきでしょうか?
「死にたい」とネットで検索した先に表示された番号に電話をするべきでしょうか?
ただその場から逃げだし、自分の安全地帯(トイレとか?)へ駆け込むべきでしょうか?

(ちなみにこれらは、全て自分がやったことのある又はやろうとしたことのあることです。)

私は、自分自身が何度もそのような危機を乗り越えてきた経験者でありながら、
今まさにその危機にいる人に何か明確なアドバイスができるかといえば、
残念ながらできません。

ですが、自分自身がこれから大切にしようと思っていることを書くことはできます。

あえて、「べきでしょうか?」と書き連ねましたが、
私は、今後同じような危機に陥ったとき、
「べき」から逃げたいと思います。


おそらく、私は、
自分の選択によって、どんな結果を被るのかを、想像しすぎていたのです。

こんな行動をもしとったら、築き上げてきたものが全て失われるのではないか?
人生が、変わってしまうのではないか?


環境を変えれば、自分が変わる
自分が変われば、環境が変わる

こんなことは、よく言われている言葉ですが、

変わることの怖さというのは、
それはもうとてつもないものです。

ですが、それでも変わることを恐れずに、
受け容れるしかない時がきます。

その時期は、自分がコントロールできるものではないように思います。

「吐きそうなほど大嫌いな自己を、受容せよ」
という課題は、
予約制ではないようなのです。

美容院や床屋で髪を切る日のように、自分では決められません。

もっとも、突然に降りかかってくるからこそ、それを生き延びた時に意味が生まれるような気もします。


あのときは「何でよりによって今ここでこんな試練が...」
と苦しんでいたけど、
今思えば、あの時期に向き合ったことに意味があったんだなぁ、と
しみじみ思う経験は、割と多くの大人にあるのではないでしょうか。



先ほど、
「べき」から逃げる
と書きました。

私にとって、これが今の自分にとっての、
生き延びるコツのようなものです。


自己嫌悪の限界がきたそのとき、
頭で「でも、頑張るべき」と思ったとしても、
自分の心や身体の声を聴き、
世界に助けを求めます。
どのような行動にでるかわかりません。
どのような結果になるかわかりません。
でも、その行動と結果を受け容れて進めるかどうかはこれからの話です。
切羽詰まったとき、過去や未来よりも、今を生き延びることだけが何よりも大事なのかもしれないのです。


私は今、こう考えています。
大学で学んだことは、人は一人では生きられないということだと。
それを今、ひしひしと感じています。
自立とはきっと、一人で立つことではなく、いざというときの依存先を増やすことです。
増やして終わりではなく、感謝して、
自分も依存してもらえる人間になることです。
(少なくとも、それを目指したいと思います。そういう意味では、私はまだまだ自立への途中です。)
 
このブログは、いつか自分が見返すとき、自分へのメッセージとしても書いています。
この記事で書きたかったことは、
自分を受け容れることの必要性ではなくて、
あくまで自分を受け容れることの難しさです。


今、消えてしまいたい誰かへ。
どうか一人で頑張らず、
時には助けを求めてください。
簡単なことではないですが、
大嫌いな自分でも、大切にしてほしいのです。


追記
受け容れるということと、投げ出して諦めるということの違いはどこにあるのかについては、またいつか書けたら良いなと思います。
とにかく、難しい概念なのです。

0コメント

  • 1000 / 1000