他者の有り難みと分人主義

人に感謝することが大事です、
という教えはあちらこちらから聞こえてきますが、
結局のところ、感謝とはなんなのでしょうか。


“ありがとう”
“ありがとうございます”

という言葉は、使いすぎて、
その意味を意識することが無くなっていきがちです。

特に接客業をやっていれば、
お客さんがレジを済ませた時や、店を出る時などに必ず言う言葉です。
私も接客業のアルバイトが長かったので、何度口にしたことか分かりません。

よく使う言葉であればあるほど、
日常的な事柄であればあるほど、
立ち止まって考えてみなければ本当の意味を忘れてしまうような気がします。

漢字にすれば、
“有り難うございます”

それはつまり、
有ることが難しい。
当たり前じゃなく、かけがえのないことだ。
ということを指すのだと思います。

有り難いことだと思うから、
ありがとうと言うのです。本当は。

しかし、そんな綺麗事は毎回意識していられない

というのがこの社会に暮らす私たちの実感ではないでしょうか。


私自身、そんなことを意識するよりも先に、
反射的に口が動いていることばかりです。
言った直後に、
これってありがとうって言うべきだったか?
と違和感を抱くこともしばしば。



ところで、
私はこれまで、あまり一貫した信念や生き方というものがなく、
極端な表現をすれば、毎日が別人のようでした。いや、今でもそうです。
誰かに腹を立てて復讐に燃えることもあれば、
苛々して、他人やモノにあたってしまうこともあります。
それだけ書くと印象が悪くなりそうですが、
何も余計なことを考えず、穏やかにすごす日もありますし、
気分がよければ、世のため人の為に善の行いに努めることもちゃんとある(つもり)です。

そんな毎日の中で漠然と悩んできたことは、
自分は一体、
善人なのか悪人なのか、
健常なのか、病的なのか、
自分が大好きなのか、大嫌いなのか、

すなわち、
どれが本当の自分の姿なのか?

という問題でした。
状況によって異なる自分を感じるという人には、
割と同じような悩みがあるのではないかと想像します。

前の投稿で、
大嫌いな自分を受け容れることの難しさについて書きましたが、

単に嫌いな自分の側面だけでなく、
好きな自分の側面も知っているからこそ、
その矛盾を受け容れがたいという感覚があります。


ここで冒頭の話に戻って、
「有り難い」ということと照らし合わせて考えてみると、

好きな自分も、
嫌いな自分も、
まさに“有り難い”ものではないでしょうか。

なぜならば、私一人では、
自由に出し入れできないものだからです。


一人で恋愛をすることはできません。
その相手と一緒にいる時間を増やしたい。
どうか、あなたといる時の自分を、もっと多くの時間体験させてもらえないだろうか。
人が人に交際の告白をするときには、無意識的にもそのような欲望がある気がします。


他者とは、友人や恋人だけに限らず、
場所やモノだって対象になると思うのです。

私は大学には途中まで電車で通学していましたが、ある時から車で通うようになりました。
電車は電車で嫌いではないのですが、
車に一人で乗っている時間というのが、とても安心して、落ち着きます。

車内という場所の、有り難み。


反対に、どうもそりがあわない相手、というのも知り合いの中にいて、
その人といると息が詰まるというか、
胸のあたりがざわざわする、と。
そういう相手とは、ある程度の距離を置かないと、心がもたないですね。
ただそんな相手でも、有り難いといえば、有り難い自分を生み出しているということになります。


私は、他者を通してしか、私になれないのだと考えるようになりました。
なぜだか分からないけれど、それのおかげで居心地が良いとか、悪いとか。

ありがたい。
おかげさま。

このあたりの言葉の本当の意味は、
【私とあなた】という関係性を抜きにしては考えづらいように思います。


ただ、苦手な相手でもありがたい存在であるというのは、
言うのは簡単ですが、なかなか意識はできないものですね。

私が、感謝ということについてこのような価値観を抱くようになったのは、
作家の平野啓一郎の『私とは何か』という一冊の本を読んでからだと思います。
この本の中で論じられている、「分人主義」には本当に大きな影響を受けました。

私という個人は、“分人“に分けられる、と。

リンクを貼っておきますので、
関心がある方は是非読んでみてほしいです。

10分程度のスピーチの動画もあるので、あわせて貼っておきます。


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