ペンギンの走る先に
長崎県にあるペンギン水族館へ行ったとき、
10匹くらいのペンギンへの餌やりの場面を、間近で見ることができました。
ペンギンが餌を持つ飼育員を追いかける姿はとても健気で、可愛いです。
ペンギンにも個性があるようで、
ほかのペンギンたちに一歩出遅れてしまって、
餌というよりも、餌を追いかけるほかのペンギンたちを追いかけるのに必死なペンギンもいました。
ここ数年、動物園や水族館に行くのが好きです。
動物たちや魚たちを見ていると、
言葉では喋らないなりに、何か人間にも通ずるようなことを訴えかけてきているような気がするときがあります。
というのは少し大袈裟に書きました。
別に動物と会話できる超能力があるとかそんなお話ではないです。
実際にはいつもそんなに難しい顔をして見ているわけではなく、何気なく眺めていると、ふと想うことがあったりするだけなのですが。
ほかのペンギンに追いつくことだけに必死なペンギン。何を想いながら、走っていたのでしょう。
私は、
自分が何を追いかけて生きているのか、
分からなくなる時があります。
小学生のころ、いや、
中学生、高校生になってもなお、
私には「夢」がありませんでした。
そして、漠然と、そのことに劣等感があったように思います。
明確な目標を持って日々を過ごしている同世代、特にスポーツ選手などを見ると、
自分の生活の生産性のなさに嫌気がさしました。
自分がどうなりたいのか?
そもそも自分はどういう人間なのか?
というのが分からないまま、
「将来の夢」「進路」を具体的に求められるのは、なかなかに厳しいことでした。
結局、私は自分で自分の人生をどうしたいか、主体的に悩むことの出来ないまま、
気づけば大学受験すらも終えていました。
後に自主退学するその大学時代、
完全に人生の壁にぶつかりました。
自分は一体、どこへ向かっているのだろうかと。
当時は、本当に毎日、生きている気がしませんでした。
高い理想と厳しい現実のギャップで苦しむのだけが、青年期の姿ではありません。
少なくとも私は、自分の理想や欲望すら分からないという虚無感に苦しんだ青年期を過ごしました。
しかし、そのような、生きている気がしない毎日の中にも、これだけは好きだと思えることはありました。
そして、ある時、
もう全てを投げ出して、
それを職業にしてしまおうとしたことがあります。
結果から言うと、
初めて見つけた私のその夢は、割とすぐに、諦めることになります。
むしろ、行動に移す勇気がなく、
嫌気のさす、どうしようもないと思っていた生活でも、いざ手放すということが、
できなかったのです。
うまく言えませんが、
好きなことをそのまま職業にするのは、
簡単なことではありませんでした。
あれから何年か経ち、
私は、私なりに自分の道を見つけ、
今では、当時は考えてもいなかった職業に就き、考えてもいなかった夢を見つけました。
スガシカオの「夢のゴール」という唄に、
「諦めた日がゴールじゃないから」
という歌詞があります。
あのペンギンのように、
自分の食べたい餌を追いかけるという当初の目的を見失いそうになるときが人間にもあるかもしれません。
でも、「職業名」を争奪する社会のレースに参加することだけにとらわれず、
自分が本当に好きだといえること、
わくわくすること、憧れることとは何だろうか、
と立ち止まって主体的に悩むことができれば、その過程で、夢というものは形を変えていくものなのかもしれません。
生きることは、何かを追いかけること
と思うのか。
生きることは、何を追いかけるかを悩み続けること
と思うのか。
とにかく色んな価値観の人がいて、
面白いと思います。
きっと、どちらの道を行くのが楽ということではないのでしょう。
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