近くから、遠くから

『うつヌケ』というコミックエッセイが売れていますね。
買ってあったのですが、読んだのは最近です。

うつ関連の本が出ると、
思わず気になったりしますが、
あまり本屋で手に取ってまじまじと読むことはしにくいです。

ああ、あの人、うつなんだ、
って想われそうで。
考えすぎですね、これがうつになりやすい性格だそうです(笑)

うつの本と言えば、
私は、映画にもなっている
『ツレがうつになりまして』が好きです。

『うつヌケ』と『ツレうつ』に共通するのは、
人を自殺に追いやるほどの、
笑えない病を、笑えるように描いているということだと想います。

だからどちらも売れるのだ、
という分析をしたいのではなく、
私は、うつというのは、
客観的に見て、どこか笑えるものでもあると考えています。

こんなことを言うと、
うつと戦っている人に怒られるでしょうか。

私自身も、うつと戦っています。
今までも危機はありましたが、
最近は特に大きなストレスがかかり、
毎日、色々なものに頼りながら戦っています。
ですから、うつ病という病名がついていようがいまいが、
うつと戦っている人たちを尊敬していますし、
その苦しさを外野から笑うつもりはありません。


でもやはり、うつというのは、
どこか笑えるものなのです


この想いをうまく表現する自信がないので、
偉人の言葉を借ります。

人生は近くで見ると悲劇 だが、 遠くから見れば喜劇である

どこかで聞いたことがあるでしょうか。
喜劇王チャップリンの名言です。


『うつヌケ』や『ツレうつ』を読んでいて、良いなと感じる点は、
うつを治すとか、乗り越えるとか、克服するだとかというよりも、

「私はいつでもうつを再発し得るのだ」

と認め、それでもうつと付き合っていこうとする人間の姿が前向きに描かれているところです。

前にこのブログで自己受容について書きましたが、自己をありのまま受け容れるには、
自己を客観的に見つめることも必要になってくると思います。

あんなに真面目な自分、
こんなに脆くて弱い自分、
あんなにイケていた過去の自分、
こんなにダサい今の自分、...

主観的に感じる多種多様な自分すべてを、
一歩離れて客観的に見つめてみる。


“うつトンネル”(うつヌケで使われていた言葉です)を抜けた瞬間、
人間はなんて矛盾した生き物なんだろう、
と、苦しんでいたさっきまでの自分に対して笑ってしまうことがあります。

私は、悲しくて悔しくて号泣してしまうとき、なぜか途中から笑えてくるという不思議な習性があります。
竹中直人の「笑いながら怒る人」のギャグではないですが、「泣きながら笑う人」です(笑)

人って矛盾しているんです。



この記事を書いていて気づいたことがあります。
私は、少し前までは、
うつと付き合っている
という考え方をしていたはずでしたが、
先ほど、うつと戦っていると無意識に書きました。
うつの中にいるそのときは、
それはもう本当に苦しいので、
戦っているという言い方になりやすいのかもしれません。


つまり、今はまだ、
辛い出来事との距離が近すぎるのでしょう。
近くでみると、悲劇。
それをいつか客観的に遠くから見て、喜劇と呼び換えられるように、
焦らず、ゆっくり、また再びうつトンネルを抜けるのを待ちたいと思います。


『うつヌケ』の作者は、
自分がうつトンネルを抜けるきっかけをある本からもらい、その借りを返すように、
自分も誰かを救う本を世に出そうと思ったそうです。

私がこのブログを始めたのにも、同じような想いがあります。
救ってもらった人たちや言葉たちに、借りがあって、それを次の人たちへバトンを渡すように返していきたいという想いです。
といっても私はまだ若輩で未熟で、
前にも書きましたが自立への途中です。
それでも、どこかでだれかの参考になる文章が書けていたらいいなと、胸の奥で願っています。

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