過去と今を繋ぐもの
休日、母校の大学の近くにある池の周りを歩きました。
在学中にも何度か、友人と歩き眺めた思い出の風景です。
会いに行きたくなったとき、
変わらずそこにあり続けて待ってくれている場所というのが、
この世界にいくつかあるとなんだか安心します。
“場所”には、
そこで過ごしたときの想いが記録されていて、そこに行けばもう一度再生できる、
という感覚があります。
懐かしさを感じるトリガーみたいなものって、場所以外にもいくつかあります。
私は中学生の時にカナダで数日間ホームステイを経験したのですが、
その時の、部屋の匂いというのを覚えています。
覚えているというより、
思い出そうとしても思い出せないのですが、
日本で暮らしていても、そのときの匂いに似た匂いを感じるときというのが、何年かに一度あり、
その瞬間、強制的に私は、
カナダでの、あの部屋に戻されます。
あの部屋の間取り、飾ってあった写真、あの日の夜の不安な気持ち。
あとは、音楽もそうです。
ある曲を聴いていて、あるフレーズにさしかかった瞬間、
ああ、電車で旅行へ行った時、あの駅のホームを降りた瞬間にここのフレーズを聴いていたっけな。と、鮮明にその場面が脳裏に浮かぶようなことがあります。
それに伴って、そのときの旅行の楽しかった気持ちも。
私はあまり記憶力が良くないというか、
忘れている過去の出来事も多い反面、
そのように、とても細かく鮮明に、生々しく覚えている場面というのがいくつかあります。
思い出すという行為は、
意図的に記憶を遡って探っていくことだけでなく、
風景や音や匂いとリンクされている記憶が、
意図せずに蘇って今にたち現れることも含まれるでしょう。
後者の場合、思い出すというより、
思い出されるという方が適切かもしれません。
そしてなぜか、意図せず思い出されたものほど、心に迫ってくる懐かしさがあるような気がします。
ところで最近考えるのは、
風景は、変わらないものもあれば、
変わってしまうものもあるということです。
あのときと同じ座標の上に立っているのに、
見える風景が全く変わってしまった、
というときに、
もう、ここにきてもリアルに当時を懐かしむことが出来ないという寂しさとともに、
ああ、時が経ったんだなあと思います。
例えば、サークルKサンクスがファミリーマートに姿を変えることは、
誰かにとっては、コンビニがコンビニになったのだから同じことだと思ったしても、
誰かにとってはその風景の変遷に寂しさを感じる出来事かもしれません。
この世界にあるどんな場所や物や、作品も、
誰かにとってはどうでもよくても、
誰かにとっては思い入れのあるものです。
懐かしむという行為の効用について、
私は詳しく知りませんが、
一つは過去と今の自分が繋がって、
自分の変化を楽しんだり悲しんだりできることなのかもしれません。
生きていくことは、
自分の存在した座標に思い出を落としていくことの連続とも言えます。
そしていつか、そこに紐付けされた過去を拾いにくる時、未来の自分はどんな風に懐かしむのだろうか、
想像しながら次へ進むのも、人生の楽しみの一つだと思います。
0コメント