モノマネと自己形成
以前、何人かの人に、
◯◯先生(大学院の指導教員)と◯◯君ってなんか似てるね!
と言われたことがあります。
適当なこと言ってんなーと思いましたが、
たぶん、何かしら本当に似ていると感じたから言ってきたのだとは思います。
誰かと似ていると言われることって結構ありますよね。
そのとき、どう感じるでしょうか。
やっぱり自分の中でカッコいいと思っている人と似ていると言われたときには嬉しいし、
自分の中でカッコ悪いと思っている人と似ていると言われたときには少し落ち込みます。
んー、いや、そんなに単純だろうか。
なんとも言えない恥ずかしさとか、そんなことを言ってくるなんてデリカシーがないなと感じたりだとか、
思い返すと、様々な気持ちになった思い出があります。
そう考えると、誰かに似ているねという言葉は結構重みのあるものだなとも思えてきます。
◯◯先生に似ていると言われたとき、
果たして嬉しいと感じただろうか、それとも嫌だと感じただろうか。
あまりその瞬間の感情は詳細に思い出せないのですが、
「似てるか?」と疑問に思ったことは覚えています。
その先生もその場で「そうかな?」と仰っていました。
自分たちでは分からないものです。
よくテレビでモノマネ芸人がご本人の前でモノマネをなんとか披露した後に、ご本人が「そんなに似てますかね?」と不思議がっているような場面が昔あったように思いますが、同じことでしょうか。我々からしたら本当によく真似できていてそっくりだと思う場合も多いのですが。
自分がどのような姿をしているのかというのは、
実は皆あまり正確には把握していないようです。
冷静に考えると、言われてみれば確かに私は大学院の指導教員に似てきている面があると思います。例えば話し方とか、見立ての視点だとか。
さすがに顔や性格までは似ていないとは思うのですが、
きっと意識せずにこちらがその先生が持っている技術を真似しているのだと思います。
でもこれは当たり前のことかもしれません。
「まなぶ」ということは「まねぶ」ということでしょうし、
更にもう少し言い換えると「盗む」ことでもありましょう。
私は多分、その先生から色々と技や所作を盗んできたのだと思います。
まぁ、盗むと言っても奪い取るわけではないから、
コピーという方が近いでしょうか。
しかし全部が全部、その先生から盗んだわけではありません。
ずるいようですが、やはりこのことについてはこちらの先生から、このことについてはあちらの先生から、という風に学んできたので、あらゆる先生の存在が臨床家としての私の中に内在化しているはずです。
ずるいというか、たぶん人として成長していくという事象には誰にとってもそういう側面はあると思います。
多くの人にとって、
生活は親の真似をすることから始まるし、
学業は担任の先生の真似をすることから始まります。
“自分で考えなさい”
...たしかにそれも大事なんだと思いますが、
考えるためには知識や材料が必要ですから、
まずはどこかから仕入れるしかないでしょう。
私はもう十分に気づいているつもりですが、
文章の書き方、いわゆる文体という面については、
かなり学部の時の指導教員に似てきていると思います。
それもきっと意識的にか無意識的にか先生からコピーしてきたからであり、
その背景にはああいう風に書きたいみたいな目標志向があったのでしょう。
私もそれなりに歳を重ね、
そろそろ若者とは呼ばれなくなってきたように思うのですが、
若者(例えばクライエントや、現場で会う人)にとってのロールモデルになっているのだろうなと感じることもたまにあります。できれば良い方でありたいものですが。
なりたい自分になるというのは、
一人で勝手に成れるわけではなくて、
誰かとの出会いの中で一つずつ学び、
特に大事な学びをいくつも内在化させて、
その総体としての自分がいずれ出来てくるものだと思うのですね。
その配分や分布が個性なのだとも言えるかもしれません。
でもその中でも「核」となるような自分はやっぱり居るはずで、
誰から何を学ぼうとするかを選び取っている自分が真ん中にいるんだと思えることが、
アイデンティティの形成にとって結構重要な着地点なのかなとも考えました。どうなんだろうか。
誰かに似てくること。
そう指摘されること。
それはときに、最初は恥ずかしく感じたり、
否定したくなったりするものかもしれませんが、
きっと自分らしさを知るヒントが隠れているのだと思います。
私に似ている誰かは、
いつか現れてくれるでしょうか。(笑)
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