何がマジなのか
好きなことについて考えるのは楽しい、と前の記事で書きましたが、
考えるだけに留まらずしっかり言語化するという作業については、単純にそうも言えないような気もしてきました。
中高生のとき、私はASIAN KUNG-FU GENERATIONが大好きだったのですが、
今思うと何が好きであんなに聞いていたのか、
当時は別に深く考えていなかったし言語化する必要もありませんでした。
好きであるということに理由は要らないというか。
逆に、理由を求められないから純粋に好きでいられるのが趣味というものなのかもしれません。
別に同級生とも「〜が〜だからいい」「ここの歌詞の意味が〜を表しているよね」「この〜の歌い方が〜...」とか話してなかった。
「マジいいよね」としか言っていなかったように思う。
それは語彙力がないというよりは、好きであるということを友達と共有できればただそれだけでよかったから、という気がします。
音楽を生業としていたらきっとそうはならないのでしょう。
今研究している(考察している)のも、もともと単に好きだったものです。
それについて誰かがYouTubeで解説しているのを見たり、ファンブックを読むのが楽しかったのは、
ただ単に受け手であればよかったからなのだろうと思いました。
自分が考察するとなると、しかもそれを誰かに読まれるとなると、受け手ではいられなくなる。なぜ〈それ〉が面白いのか、なぜ〈それ〉がこの時代においてユニークなのかを深掘りするためには、やはり作り手の立場になって想像してみることが必要になります。
それだけに、適当なことは書けないなという気持ちが出てきてしまいます。間違えることが怖いというか。作り手に申し訳ないというか。
最初から完璧なものが書けるわけではないことはよく分かっているつもりです。
ですが元々が好きなものであるが故に、
どこかで完璧なものを求めているようです。
間違えてはいけないという発想は、割と視野を狭くすることにも繋がるような気がして、本当はもっと自由に考えたいと思うのですが。
理由もなく好きであるということは、
それに対する愛があるということでもあるかと思います。
愛というのは論理的思考を邪魔するところがあるのではないでしょうか。
論文を書くことにおいて論理的展開や根拠はとても重要なものですので、
研究対象を愛しているということは脇に置いておく必要があるという見方もあるかもしれません。
ただ一方で私は、論文だとか、論文に限らず何かテーマを掲げて書くということには、論理や根拠を超えた書き手にとっての「それを書く意味」やとても個人的な物語性みたいなものが表れてくるものだとも感じています。
つまり論文を書くとか考察を披露するということには、何か新しい知見を残すとか読み手を説得するということの他に、その人だけの美学が付随してくるようにも思えるし、
それらがうまく統合された文章こそ私がなんとなく目指したい「完璧」なのかもしれません。
その完璧を生み出すのは当然簡単ではないので、
冒頭で述べたように、やはりその作業は単純に楽しいだけとは言えないようなのです。
「マジいいよね」の感覚をいかに殺しきらずに、
〈それ〉について客観的に考察していくか。
なにがマジなんでしょうか。
難しいですが、やりがいはあると思います。
中高生の自分には無理だったと思いますが、
一応色々と培ってきた今の自分には出来ることもあろうかと思いますので、
好きなことを真正面から深掘りすること。
この難題としばし向き合ってみようと思います。
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