相談にのること
今日は人と沢山話して、とても疲れた。
切実に悩んでいる人、答えを求めて真剣に考えている人の話を聞くということはとてもエネルギーが消耗されるものだとつくづく思う。
ケースバイケースだよ、答えなんてないよと言いたくなるところだが、
それは後から言えることであって、
ケースの渦中にいる彼らはそう言われても困るのだろう。
時間があればいくらでも聞いてやりたいがそうもいかない。
カウンセリングや心理療法では枠を意識するが、
普段の生活やコミュニケーションでは関係性によっては枠が作りづらい。
そもそも予期せぬタイミングで相談は発生する。
なぜその人に相談したいのか、相談して何を得たいのかは人それぞれだろうし、
そこを注意して見ないと相談にはうまく乗れない。
相談したいという気持ちは私も慢性的に持っている気がする。
しかし本当は答えなんてないことは分かっていて、
ただ自分が苦労していることを知ってほしいだけなのかもしれない。
案外そんなもの、のことも多いように思う。
うまくアドバイスできぬまま、
難しいなぁ、そういう葛藤があるのか、その状況だったらたしかに悩むかぁ、
うーん...と言っている間に時間が過ぎていく。
このとき早く時間が過ぎないかなと感じている場合は共感不全が起きていて、
時間をわすれてその人の状況を必死に想像しようとしているときはある程度聞くモードが維持されている。
とりあえず悩んでいることは分かった、知っておきますということが伝わって、
少しでも彼らの寝つきがよくなればよいと思うがうまくいっているだろうか。
私が普段やっていることは専門的助言のような要素もなくはないのだろうが、
大部分はなんの変哲もない「情報共有」で「雑談」なのだと思う。
でもそれができることが大切ではないかと思う。
人は余裕がなくなると一人で秘密を抱え、憂鬱に追いやられてしまう。
外的な要因が大きいような困りごとの場合は、いくら話を聞いたところで事情が変わることも殆どない。
しかしだからといって聞いてやらないのは愛がない。その愛を絶やさないためにもこちらが心と時間の隙間を開けておく必要があるのかもしれない。
情報をともかく共有すること、答えは無理に出さずとも、
同じ方向を向いている仲間がいると感じられることは生きる上で重要だろうと思われる。
教育とは何かを考えさせられることの多い日々である。
あまりその人の問題を奪い取らないようにはしたい。
やはり人それぞれに与えられた事情の中で、迷いと選択の連続の先に人格形成があると思うから。
ただ、傾聴だけが癒しの手段ではない。
一方的に何かの説明を受ける時間が心地よいこともあるし、
半々くらいの発話量でディベートすることが活力になることもある。
本題に入らないまま冗談だけを言って、ツッコミをいれてもらうやりとりが嬉しい日もある。
そうやって様々なコミュニケーションを体験しながらなんとか日々を進めていくのだろう。
人間関係の奥深さをまだまだ感じることができることを十分な幸せとし、
もうしばらく「相談」を通して色々考え続けてみようと思う。
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