selfish
プラダを着た悪魔2を観に行った。
おこがましくも、
メリル・ストリープが「メリル・ストリープ」である理由が解った気がした。
もちろん1作目を観てから行った。
自分としては1作目を観てからたった3日ほどしか経っていないけれど、
作品のなかではしっかりと20年という時が流れていて、
時代の変化とそのうねりの中で改めて、そして愚直に「働くこと」を魅せられた。
アクション映画でもないからドルビーアトモスである必要があるか分からず観たが、結果的に素晴らしい音楽によってその価値を感じられた。
1作目は2006年の作品だが、アメリカは当時どんな社会だったのだろうか。
パワハラなんて言葉あったのだろうか。理不尽に負けず生きていくということは、戦うことを意味するのか逃げることを意味するのか。
シンプルな成長物語にみえて、
語られないそれぞれのキャラクターの事情が垣間見えるところもあって、本当は複雑な構造の作品であるようにも感じられた。
2026年の今、理不尽な仕打ちや自分勝手な行動は慎まれるべきものとされるようになってきた。
目立ちすぎれば叩かれる。
本音を言えば燃やされる。
なんとなく抑圧された怒りや哀しみがきっと皆にもあって、自分にもある。
自分らしく生きているように見える他者の姿には憧れる。
強さを感じる。同時に今の自分に弱さをまた発見する。
肩書や業績なんてあの世には持っていけやしないのに。
過去も未来もバーチャルなものだ。
だから今・ここが大事なのだ、
なんてフレーズは実は聞き飽きてしまった。
「今」は流動的で、刹那的で、無意味だ。
無意味だけど、価値があると信じることをやればいい。
それが自分を愛するということであり、
価値があると思えるような関係を形成してくれる他者を愛するということだ。
慌ただしい日々の中では、
深さも美しさも愛も見失われていくのかもしれない。
時間があれば解決するわけではない。
急速な世界の中で自分なりの速度を見つけ、個別の迷いを掴んでいく。
そうすることで私は人間であることを確認している。
働くことは私生活の犠牲の上に成り立つ。そんな言い方も割と間違いではないかもしれない。
正直このまま進んでいくことに不安も抱えている。
誰かを救うことで誰かを踏み潰している。
そんな両価的な世界で、来る日も来る日もどちらかを選んで生きていくのだ。
この極めて自己満足な生活を漂いながら、私も「私」というアイコンを創り上げていきたい。
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