芸術の只中で
なんだか、自分のブログを見返すと、
である調とですます調とが混在していることに気づく。
最近はである調が多いのだけれど、
ですます調で書くときは誰か読んでくださいという要望が無意識にあるのだろうと思う。
と、である調で書いている今日の私は、著しく内向モードである。
本当の言葉ってなんだろうか、と、この時代だからこそ疑問を持つ。
私は理系の大学にいたとき殆ど授業に出なかったけれど、
情報工学の最初の授業でシンギュラリティの話をされたのだけは覚えている。
いわゆる技術的特異点というもので、簡単に言えば人工知能が人間を超えるのが2045年と予測されているという話だった。
なんだか遠い未来の話だし別にどうってことないというフリをしていたと思うが、
内心は怖かったのではないかと思う。だから今でも覚えているのだろう。
そして今、私にとっては、科学技術に対してもう既に便利で良いねという段階を越えてしまったのではないかと感じている。
自分の言葉ってどこにいったのかな、という不安によってこのブログに戻ってきているような気さえする。
苦悩を生み出すのは言葉であるという考え方があって、
それから自由になることを目指すアプローチも心理療法の中にあったりする。
私は人一倍言葉というものを大切にしたいと思っていると同時に、
言葉さえなければと思うほど苦しいときがあることも知った。
ブログと違って締め切りがある書き物って苦しい。
本当の言葉を見つけるには悩む時間が必要だから。
昨日からカフェで論文の原稿と睨み合っていて、
どうしても行き詰まってしまうところがあった。
悩んでいる時間はない。誰かの言葉でもパクっておけばいいじゃないか。
という考えがよぎるのだけど、
私の本当の言葉を見つける作業を奪われたくない、自ら奪いたくないという気持ちが働いて、
結局しばらく進めることができなかった。
自分を書こうとすると、行き詰まるものだ。
事例の記録だって本当は、行き詰まるはずなんだ。
SOAPという書式に則ればいい場面と、
「私」の体験にフォーカスしなければならない場面とがある。
本当の言葉を書くということの難しさを改めて考える。
ここからはですます調で書いてみます。
ひとりカフェでパソコンの画面と睨み合った挙句、
昨日の私を掬い上げてくれたのは音楽でした。
行き詰まったときこそ芸術です。
カフェという雑音だらけの場所にわさわざ赴いておいて、
イアホンをつけて自分の中に引きこもり、
芸術に私を投げ込むという行為は、ときに抽象的なイメージを伴って、
ある出来事や状況に新たな理解を与えてくれることがあります。
芸術は抽象的だからこそ、多くの人で共有できるという側面があります。
これは逆だと思われるかもしれませんが、私はそうだと思います。
共有...よりももっといい言葉があるかもしれません。
共鳴の方が近いかもしれません。
あたかも自分へのヒントかのように届くときがあるのが芸術です。
昨日はたまたま音楽だったけれど、マンガのときもあれば、映画のときもあれば、
たった1枚の絵のときもあるでしょう。
大事なのはその抽象的なイメージが自分にとって意味があるかということです。
サカナクション/怪獣
ヨルシカ/アポリア
ヨルシカ/へび
私は今この3曲を何度も何度も繰り返し聴いて、そこに自分自身を投げ込んでみています。
そこには私の意識にはなかった言葉が置かれていました。
本当の言葉を生み出すことは、私をどこまでも掘り下げていけば可能になるわけではないのかもしれません。
何かを知りたいという欲望があることへの気づき、
でもすべてを知ることにはたどり着けないことへの気づき、
更には、なぜ知りたいのだったかという自分への問いの転回。
生きる上で、(特に学問を行うという上で)
この作業をしなければいけないことの楽しさと苦しさを、
他者に伝えたくて書いているのだろうなと気づいたら、
少しだけ論文執筆が進みました。
本当の言葉と向き合う時間が奪われがちなこの時代において、
いちど真ん中から外れてみて、
自分が没頭できるもの、過去にしていたものを触れに行くのも良いと思います。
ヒントはすぐそばの、なんだか気になる芸術の中にあります。
気づけばこの記事もなんとも抽象的な文章ばかりになってしまいました。
でも、自分にとって、ここに書くことに意味があるのです。
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