サンプルの奥に

研究にはN、つまりサンプル数というものが常についてまわります。

Nが10なのか100なのか1000なのか、

それをどう集めたのか、ということを抜きにしては、

導き出された結果を公平に見ることはできません。

量的研究であればNの大きさというのがある程度重要な意義を持つわけですし、

私も卒論や修論では十分な協力者数を集めるのにまずは必死だったと思います。


本来は見えないはずの心というものをいったん数量化して扱えるものに置き換え、

様々な統計手法を用いて一般法則を明らかにしようとする、

それはある意味で分かりやすい研究目的とデザインであり、

心理学は科学であるという立場を守るならば、

これからもこの仮説検証型の研究は重視されるべきです。


一方で私は最近は質的研究というものに関心がありまして、

まだ学び始めたばかりではありますが、

臨床心理学という分野で働く自分にとって、

その学問で研究をするのならば、やはり量的研究のみでは捉えきれないものがあるだろうということを考え始めています。

つまり心というのは数量化できるところもあれば、数量化できないところもある。


とくに心理療法過程で起こるような相互作用は、

今日のカウンセリングは75だったとか、先週のカウンセリングは40だったとか、

簡単に第三者に共有できるようなスケールでは表せない。


心理療法過程のみならず、そもそも私たちの心というものは、

もう少し大きく言えば生きるということは、

本来どこまでも主観的な営みであり、

そして主観的であることに良いも悪いもないのではないかと思うのです。

そこには社会から判断される善悪があるのではなく、

ただその個人にとっての語り、

その語りの中にその人固有の【意味】があるだけなのです。


【意味】を大事にせねばならない。

私はこれまでの臨床経験の中で、

悩みながらこのことと向き合ってきたのだろうと思います。

簡単ではないからこそ、向き合う必要があったのです。

臨床も見立てと介入を修整しながら検証していくという意味では研究に似ているわけでして、

ある意味で目の前に座るクライエントは、

私の臨床を実践させていただく対象者という意味では、サンプル(N=1)でもあります。

サンプルを常にちゃんと自分とは異なる心として扱うことは、実は簡単ではなかった。


量的研究は基本的に匿名ですから、Nの向こうに一人ずつ実際の心があるということを忘れてしまいがちかもしれません。

ソフトを使えば一瞬で数値が出ます。

だから量的研究とか厳密な科学的手法が冷たいというのではありません。

質的研究はデータと向き合う時間が長いから熱を帯びるというものでもないでしょう。

自分が求めているような回答でないときにもそのデータを捨てずに分析せねばならないという意味では、結構しんどい作業になることもあるでしょう。

量的研究と質的研究は反対のもののように捉えられがちかもしれませんが、

やはり私たちが心というつかみどころのないものに迫ろうとするにあたって、

どちらも大事な両輪の視点であるということです。


科学において、研究に対する研究者の熱というのは排除すべきかもしれない。

しかし、やはり私たちは何らかのモチベーションがなければ仕事も研究も教育も究極的には成り立たないはずです。外発的動機だけでは続かない。


納得いくものを創り出すには(論文に限らず)、熱が必要です。

本当に自分が知りたいことはなんなのか。

一般法則なのか、目の前のクライエントなのか、同僚の考えていることなのか、はたまた自分自身についてなのか。

そのテーマを見つけることさえできれば、

先人たちのおかげでそれに合った研究手法がある程度用意されていますから、

真摯に調べたり試行錯誤したりすれば、なんとか収まると思います。

と、卒論や修論で躓いている学生に言っている風に見せかけながら、

自分にいま言い聞かせるつもりでここに書いている次第です。


Nの大きさだけにこだわるのでなく、

その奥にひとつひとつの心があることに十分に気づいていること。

そんなことを大切にしつつ、

私はこれから心理臨床における【意味】たちを探索してみようと思います。



the way to do is to be

2017-

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