“人の意志”の永遠性(『進撃の巨人 Season.3』感想)
※【進撃の巨人】ネタバレ注意
2019年6月30日深夜放送回で、
アニメ「進撃の巨人 Seaosn 3 part.2」が最終回を迎えました。
まるで映画を見ているかのような鮮やかな空・雲の描写、
映像に重みを持たせるBGM、あるいはあえて音楽を流さない演出、
生死を賭けた闘いの中でのリアルな人間の葛藤、
作品の世界の根幹に迫るストーリー展開・・・
今回のシーズンも圧巻と言わざるを得ない出来だったと思います。
最後に主人公たちが海を見るシーンでは、こみあげてくるものがありました。
私は漫画は好きですが、アニメにハマるということはあまり無い方でした。
原作が面白いのだからアニメも面白いに決まっている、と言われればそうなのですが、
映像化され、声優たちの力の入った演技によって世界観がより立体的になり、
もう一度漫画原作をより楽しめるようになりました。
シーズン3では、多くの兵士が命を落としました。
戦争の中で痛感される命の脆さと儚さ、
「無駄死に」とも思える残酷な現実を描いてきたのもこの作品です。
仲間の死を経験してきた作中のキャラクターたちですが、
特に調査兵団団長エルヴィン・スミスとリヴァイ兵士長は、
数えきれないほどの仲間の犠牲の上に立っている二人と言えます。
そんな彼らには、彼らなりの死生観があることが作中で垣間見えます。
打ちひしがれた兵士を鼓舞するために、ときに彼らは<“人の意志”の永遠性>を説くのです。
人は死んでも、その意志は他者の中に残り続ける。
そう告げることで死に逝く者を鼓舞し、励まし、救おうとする一方で、
仲間を弔う時間も無い自分にもそう言い聞かせ、
エルヴィンとリヴァイはこれまで進んできたのだと思います。
無意味とも思える犠牲に、何かしらの意味を見い出し続ける必要性がこの闘いの中にはあったのでしょう。
他の作品にも、同じようなテーマを思わせるセリフがありますね。
『ONE PIECE』のこの有名なワンシーンを思い出したと同時に、
私は漫才師の生き様を描いた小説のワンシーンも思い出しました。
漫才はな、一人では出来ひんねん。二人以上じゃないと出来ひんねん。
でもな、俺は二人だけでも出来ひんと思ってるねん。
もし、世界に漫才師が自分だけやったら、こんなにも頑張ったかなと思う時あんねん。
周りに凄い奴がいっぱいいたから、そいつ等がやってないこととか、
そいつ等の続きとかを俺達は考えてこれたわけやろ?
ほんなら、もう共同作業みたいなもんやん。同世代では売れるのは一握りかもしれへん。
でも、周りと比較されて独自のものを生み出したり、淘汰されたりするわけやろ。
この壮大な大会には勝ち負けがちゃんとある。だから面白いねん。
でもな、淘汰された奴等の存在って、絶対に無駄じゃないねん。
やらんかったらよかったって思う奴もいてるかもしれんけど、
例えば優勝したコンビ以外はやらんほうがよかったんかって言うたら絶対そんなことないやん。
一組だけしかおらんかったら、絶対にそんな面白くなってないと思うで。
だから、一回でも舞台に立った奴は絶対に必要やってん。
ほんで、全ての芸人には、そいつ等を芸人でおらしてくれる人がいてんねん。
(引用:又吉直樹『火花』文藝春秋.p.133-134)
「人は人に忘れられたときに死ぬ」
「全ての芸人には、そいつ等を芸人でおらしてくれる人がいてんねん。」
エルヴィンやリヴァイも、
心臓を捧げていった仲間たちは自分の一部となるということを真に感じ、
嘘偽りなく彼らに伝えてあげていたのかもしれません。
いずれは自らも死ぬという不変の事実、
それが明日かもしれないことを予感させられ続ける毎日の中で、
あるいは自分がそう思いたかったのでしょうか。
無意識的にも、私たちはもう何年も会っていない人がふいに夢に現れたりします。
一見忘れ去られた過去の出会いや出来事も、
自分の中で何かの象徴として生き続けているのかもしれませんね。
そんな『進撃の巨人』、
次のシーズンは、2020年の秋に決まったそうです。(待てない・・・)
視聴者の目に留まったのは「ファイナルシーズン」という表記でしょう。
原作はまだ完結していませんが、かなり物語は佳境に入っていると思われるので、
もしかしたら原作の方も終わりが近いのかもしれません。
アニメオリジナルの終わらせ方をするとも思えないので…。
もしくは、Season3がpart.1とpart.2に分かれたように、
ファイナルシーズンも時期を分ける可能性もありますね。
とにもかくにも、毎週の楽しみが一つ減り、少し喪失感と余韻に浸りながら、
人の意志の永遠性なんて大それたことについて、書いてみた次第でした。
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