臨床における未熟さと覚悟

タイトルが先に決まらないので取り敢えず書き始めてみよう。

たまに頭が冴えてしまって眠るタイミングを逃してしまう夜がある。

でも少し眠気もあるから、

論理的には書けないかもしれない。

なんとなく朧げなまま、心のひっかかりを言語化していくことになると思う。


臨床について書いてみよう。


私は心理臨床家としての道を歩み始め、

気がついたら偉そうにも大学院生の相談にのったり、オープンキャンパスで高校生相手に心理療法について説明したりするような立場になっていた。

それなりの年齢だから、それは大して変なことではないのかもしれないが、

まだまだ臨床家としての経験は浅いと思っているし、本当は人間はどんな生き物なのかということについて殆ど何も分かっていない気がするので、

ふと後ろめたさみたいなものを感じることがある。

完結することはないと分かっているが、一定の自信を持てるようになるまで勉強し続けねばならないと、焦りの混じった義務感を抱えている。

もう若手とは言えなくなってきていることに何かしらのコンプレックスがあるのだろう。


未熟な自分であるということ。

それを見ないようにしていることもあれば、

言い訳として使うこともあれば、

成長の動機として転換することもある。

心理臨床という世界においては、未熟であることは必ずしも悪ではないと思う。

これがスポーツ選手やノルマのある営業職、外科医であれば、そんな甘いことは言いづらいだろう。

彼らは成果を出さなければならない。それぞれの試合に勝たなければならない。それを期待されているし、きっとそのこと自体に意味を感じて働いておられる。


私はどうなのだろうか。

どちらかというと医療という領域に軸足を置いて心理臨床を行っている。

医療の中にいながらにして、心理という文化を背負って働くことについて、

本当はプライドをもっていたいけれど、

心理士というのはやはりメインストリームではない職業だ。

医療でなくとも教育分野でもどこでも、海外ほどサイコロジストの立場は強くない。

ある程度、いやかなりの部分で医療や教育というシステムに迎合していかなければ居場所は作りづらい。

ただ私は、有難いことに勤務先では自分のペースで臨床をさせてもらっている。

エビデンスや診療報酬が大切なことも分かっている。

だけれども、心理学は科学でありながら、臨床という言葉が頭につくと何やら科学だけでは十分に説明できなくなり、

科学(客観性や再現性)のみで仕事をしようとすると、あくまで私にとってはだが、なんだか味気のないものになってしまう。


心理臨床における成果とは一体なんだろうか。

症状の軽減、心理検査の点数上の変化だけではなく、

カルテに書き得ないことが起きている。

このクライエントと出会ったことは私の人生の物語の一部なのだと思いながら、

なんとか毎週私なりの臨床を続けている。

必ずしも説明できない、してはいけない成果もあるはずだと私は考えている。

しかし全体的には、

物語性や文学性を大事にしたいという意見を、なかなか堂々と言えないような空気感もあるかもしれない。

臨床観や学派選びには人生観や哲学思想まで関わってくるから、変に主張しあって傷つくらいなら黙っていたほうが疲労しないだろうと思っているところもある。

ここはそれぞれの意見があっていいところだと思う。


未熟であること、目に見えた成果を出せないということは、果たして悪だろうか。

経験者よりも初心のカウンセラーの方がよほど意義深い事例を体験している場合も有り得るのではなかろうか。

むしろそんな出会いを活性化させるシステム作りを担う仕事が経験者側には求められているようにも思う。


うまく言い表せないが…そしておそらく非常に失礼なのだが、

変に成熟してしまうと、あまりよくない意味で見立ての鋭さが増してしまうように思う。

そして経験の浅いカウンセラーの事例発表に対して「答え」(そのつもりはなくても権威のある人から言われたら初心者は真に受けがちである)を与えてしまう。

ケースカンファレンスがその最たるものだが、

果たしてクライエントという一人の生きた人間に対してほんの数時間で唯一の答えなんてものが出るかというと、そんなに単純な人間はいない。

方針を出し合うのは大切だが、

議論がある方向に極端に振れそうになったとき、発表者も参加者も、本当はもう少し疑わなければならない。

そして人間は多面的な生き物であるということを思い出す必要があると思う。

仮説はいくつかあっていいものだろう。我々の主目的は診断ではなかったはずだ。

オーディエンスが読んでいるのは紙である。活字である。それも、加工されたものである。

そこに純度100%の事実はないと言っていい。

でも、実際に事例に向き合ってきたセラピストにとっての真実はある。内的現実と呼んでもいいだろう。

私はむしろそれの方が興味があるし、それについてリスペクトと関心を持った質疑が繰り広げられることを望んでしまう。

どうしてもこれが、少なくとも私が経験してきた事例検討の場では難しくなっている。

私もモヤモヤと考えた挙句、大勢の場では控えてしまい発言できないことも多い。

貴重な意見をいただきありがとうございましたと発表者は言うが、果たして今日の議論で新たな問いは立ち上がったか。

ケースはこれからも続いていくのだ。


未熟であるということは悪ではないと思う。

私も以前、とあるクライエントから、先生は結婚してるから安心して話せますと言われたことがあり、

あぁ自分も大人として見られるようになってきたかと一瞬思ったが、

そういうことではないだろうとすぐに思い直した。

次のケースでは結婚指輪は外しておこうかとも迷った。


未熟であるからこそ真剣に知ろうとし、準備をし、振り返る。

そんな学生に出会うことがあり、私もある種の刺激を受ける。

その刺激がもたらすのは、あぁこれがケースと向き合うということだよなと思わせられる、若者への感心と、

自分はいつのまに、何を涼しげなふりして何ケースもこなしている気になってしまっているんだろうという一種の緊迫感である。


さて臨床というのは実際には何が行われているのか当人たちの間でしか分からない(特に一対一の個人心理療法というやり方においては)から、

そこで起きている理論に基づいた介入やベテランならではのテクニックを外から見ることは難しい。

(ちなみに一方、陪席は純粋な二者関係や密室性を崩すという意味では様々な弊害があるものの、学ぶ側にとって貴重な体験であることに違いない)

そしてなにより、そこで起きた偶発的で感動的なやりとりは第三者は知ることができない。

それはセラピストとクライエントの秘密なのである。

なんと不透明な仕事か。

なんと評価されづらく、怪しげな仕事か。

あの人は偉い位置にいるから臨床がさぞうまいに違いないという想像の根拠はどこにあるのか。


私たち心理臨床家は秘密を抱えるという前提のもとでも、

なんとかして自らが意味のある仕事をしているということを証明し、

同僚同士で自らの不安を確認し励まし合い、

よき教育者(例えばスーパーバイザー)を見つけていかなければならない。

未熟でもいいという言葉の裏には、成熟しきってしまうこと(万能に一人で出来てしまうこと)の怖さがある。

未熟だっていいじゃないかという一見甘い文章から、そんなことを連想していたら、むしろ他の仕事と比べる必要のない、独自の厳しさを持ったテーマなのではないかと思えてきた。


そんな臨床心理学という海で、今、自分の島を建設しようとしている。

果てしない道のりのように思える。

20代の内から頑張っていればよかった、とはあまり思わない。

その時にはその時を生き延びるので精一杯だった。

その時の心の汗は30代の今に無事、届けられた。

もう若手ではない、そしてベテランでもない、いまだからこそ思うこと、言えることがきっとあり、まだ遅くないと言い聞かせる。

いましか書けないものを書くしかない。

そこに私の主体の次のフェーズが待っていると信じて、しばらく臨床を続ける。

40代の自分にこの体験を贈るつもりで。

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