なぜを引き受ける時機

生物学者の小林武彦先生のお話が、

いくつかYouTubeで見られる。

生物学という視点・知見から、

「なぜ死ぬのか」

「なぜ老いるのか」

「なぜヒトは幸せでないのか」

という巨大な問いについて語られていて、

非常に興味深く観た。


【なぜ】という問いは沼に入ると精神的にきついところがある。

生きていると、究極的には誰にとっても納得できる絶対的な意味なんて無いことばかりだと気づく。

誰かに比べて裕福であるとか、設定した目標を達成できたかどうかとか、

自分が勝手に決めた基準から価値を相対的に決めるしかない。

【なぜ】の答えを求めるよりも、【何がどのように】を探るほうがよほど考えやすいだろう。

カウンセリングにおいてもWhyよりもHowを尋ねていくことの方が多いように思う。


なぜ自分に悲劇が起きたのか。

なぜ自分が病気にならざるを得なかったのか。

そして、なぜ生きているのか。

例えばそのような数々の問いにすぐに答えが出るとは思っていなくても、

理不尽さを消化しきれず、立ち止まってしまう瞬間が人生にはあるように思われる。


心理カウンセリングでは【なぜ】に囚われた人々と出会っていく。

カウンセラーも【なぜ】を抱えた生き物であるにも関わらず、

クライエントたちからの問いかけに向き合っていかねばならない。


中には【なぜ】が十分に立ち上がっていないクライエントもいる。

だけれどもどこか心の行き詰まりを感じていて、

それぞれの事情や経緯で心理支援に繋がり、カウンセリングに行き着く。

あなたは本当は、抱えてきた問題や与えられた試練の意味を求めているのですよね、

とこちらが感じたとしても、最初から直接それを伝えるのは早すぎるかもしれない。

人には人の悩む準備性、【なぜ】と向き合う時機というものがある。

準備性を尊重しなければならない。そして実はそのことはかなり難しい仕事であるように感じている。

待つこと、俯瞰すること、眺めること。

そのあたりの態度が重要なように思うが、

私はどうしてもまだまだ焦りを手放せずにいる。


どうすればそのような態度を身につけられるか分からない。

本を読んでも研修を受けても、このように文章を書いても、

未だ私は自己愛的な世界の見方から離れることができずにいる。


悩む意味とはなんなのか。

これほど大きなテーマと向き合う自信を、時に失いかける。

ただこの【なぜ】をなんとかこの心身に収めることが、

私が変化することに必要不可欠だとも薄々気づいているのである。


悩めないこと、悩まないこと、

それらのことの是非がどうであれ、

研究するならばそもそも人にとって悩む意味とは何なのかを暫定的にでも良いので定義しておかねばならないのではないか。


たしかにゆっくりと内省する時間を持つことが難しい時代になってきているかもしれない。

この速度の時代を生きる中で出来る、自分との向き合い方とはどんなものだろうかと。

そのヒントは臨床家・研究者である私たち自身の中にあるのかもしれない。


自戒をこめてここに書いておきたいこと。

それは臨床心理学においては、

目の前の事例を自分と切り離して考え続けていてはならないということである。

問題解決やより良く生きることを望む人が目の前に座っている。

そもそも問題とは何なのか、生きるとはなんなのか、

そのような【なぜ】にカウンセラーが目を背けるならば、

ビッグデータを扱える生成AIや最新医学のほうがよほど有効であると言わざるを得ない。  


ヒトである私が、【なぜ】を問うという大仕事にコミットして二者関係を引き受けていくこと。

簡単ではないからこそ面白くもある。

繰り返しになるが自戒をこめて、

私はそのことを考え続けていきたい、いや考え続けていくのだろうと思う。


あなたは【なぜ】いまこの文章を読んでいるのでしょうか。






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