受容≒
第3世代の認知・行動療法として、
アクセプタンス&コミットメント・セラピーが注目を集めてきています。
(以下ACTと表記。読み方はアクトというそうです。)
先日、名古屋で行われた日本認知・行動療法学会のACTに関するセミナーに参加してきましたので、少し紹介いたします。
以前から、悩みや心理的苦痛との「距離の置き方」という見方に関心を持っていたため、
元々「包括的距離化」とも呼ばれていたACTという心理療法があることを知り、何かヒントが得られる気がして勉強しているところです。
まず認知・行動療法(CBT)とは、
根本的には学習理論に基づいて発展してきた心理療法の総称で、
行動が変わるプロセスに着目して、心理面・行動面・発達面の問題や課題に対する支援、予防、向上を目的とした方法論です。
行動に焦点を当てた行動療法と、思考や認知に焦点を当てた論理療法や認知療法から発展してきました。
「認知行動療法」と「認知・行動療法」の表記があるのは、
狭義の意味での認知行動療法(認知療法と行動療法を折衷させて、ある程度パッケージ化した心理療法)を示す場合と
広い意味で、行動療法や認知療法から発展してきた各種の心理療法(行動療法・認知療法・応用行動分析…さらに細かくはマインドフルネス認知療法、DBT、ACTなど)を包括的に示す場合とに分ける意図もあるようです。
ですから、
Cognitive and Behavioral Therapyと単数形で訳す場合と、
Cognitive and Behavioral Tnerapiesと複数形で訳す場合があるということです。
一口に認知行動療法と言っても、このような集合体の性質があるため、
全体像が見えにくくどこから学び始めてよいのか分かりづらいということがあるようです。
また、例えばACTについて学ぼうとしたときに、
その背景にある行動分析学や応用行動分析、関係フレーム理論などという所から丁寧に学ぼうとすると、道のりが遠すぎてハードルが高く感じ、挫折してしまうのではという懸念から、
講師の先生は「ACTはユーザーインターフェースやアプリのようなもの。」ということを仰っていました。
私達はプログラミング言語(C言語やJavaなど)を理解していなくてもパソコン(WindowsやMac)やスマホ(AndroidやiPhone)が使えて、その恩恵を受けられます。
それと同じように、行動分析学や関係フレーム理論を理解していなくても、ACTを使えるということです。
むしろ分かりやすいところから入り、不足しているところやエッセンスを追求したいときに背景理論に戻って勉強するということでもよいのでは、との提案がされていました。
ACTで目指すのは、「心理的柔軟性」を生み出すことにあり、
そのためにアクセプタンスやマインドフルネスのプロセスを重視します。
さらには、これまでの認知行動療法で扱われてこなかった「価値」(簡単に言うと人生の方向性)と、それに基いた行為(「コミットメント」)まで扱います。
面白いのは、
「心理的柔軟性を確実に生み出すのであれば、ACTは何の技法で構成されてもかまわない。」
「心理的柔軟性モデルに基づいている限り、用いる人がそう呼ぶと決めたなら、どんな方法もACTと呼ばれてかまわない」
とACTの考案者であるSteven C. Hayes氏が著書の中で言っているということです。
なんと風呂敷の広い!とも言えますが、
「心理的柔軟性」ということにはとにかくこだわっているとも言えます。
ではその肝心の「心理的柔軟性」は何かというと、一言での説明が難しいので、
その反対の状態から少しだけ説明します。
「心理的柔軟性」の背後(裏側)には「心理的非柔軟性」があり、
心理的非柔軟性が高い状態では、
例えば、「体験の回避」(不快な感情を消そうとする、嫌なことを忘れようとする、アルコールや薬物で気を紛らわす)や「認知的フュージョン」(思考に巻き込まれる、まるで今体験しているかのように未来の心配におびえる)
といったことが起こるとされます。
ある論文では、心理的柔軟性は以下のように定義されていました。
「心理的柔軟性とは,思考,感情,感覚,記憶,それらが伝えてくる内容ではなく,それらをそれそのものとして,自己防衛することなく,受け容れ,環境から体験するものを基礎として,連続した価値の選択を基に,行動を持続したり,変化させたりする能力のことである。」
難しいですね。
「体験の回避」などが過剰な場合(つまりそれによって人生を阻害しているとき)を病理的なコア・プロセスと捉え、
ACTのコア・プロセスで心理的柔軟性を高めていくということになります。
体験の回避に対してはアクセプタンス、認知的フュージョンに対しては脱フュージョンという考え方や実践テクニック・メタファーが用意されているわけです。
そういったコア・プロセスが6つあり、
それらが独立しているというよりは、全て相互作用しながら心理的柔軟性が高まっていくと考えられています。
この6つのコア・プロセスについて一つ一つ説明するのは大変なので(まだ説明できるような立場にありません)
今日は、「Acceptance(アクセプタンス)」という言葉について書いて終わりにしたいと思います。
Acceptanceを和訳すると、「受容」ということになるかと思います。
「自己受容(self-acceptance)」に関しては臨床心理学の世界では20世紀半ばから今に至るまで使われることが多々ある用語ですし、
心理学とは関係なく日常生活においても、
雪の女王しかり「ありのままの」という表現はよく耳にするわけですが、
結局のところ、「受容」を「ありのままを受け容れること」と言い換えても大して何も説明したことにならず、どうすればそうなれるのか、それが良いことなのかも個々人の経験によって解釈が異なるところでしょう。
私自身は、「分人主義」の考え方から、
状況それぞれに異なる自分から「一つを本当の自分・それ以外を偽りの自分」とするのではなく、すべてを本当の自分であると気づくことが自己受容的態度につながるのでは無いかと考えていた時期がありました。
ACTにおけるアクセプタンスやマインドフルネスでも、
「気づく」ということが重視されています。
<気づいた上で、意図的に、オープンで、柔軟で、批判的ではない姿勢を取ること>
がACTにおけるアクセプタンスです。
・苦痛をそのまま観察する
・自分の中に苦痛を置いておくスペースを作る
・苦痛をどうこうしようとするもがきを手放す
・価値に基づいた自発的な選択として、臨む
といったことが含まれます。
実際のACTではこのような抽象的な説明よりも、
具体的なエクササイズやメタファーを使って語られるのが特徴のようです。
例えば、意識を“今、ここ”に戻す方法として、呼吸に集中するという方法はマインドフルネス瞑想などから引き継がれているところでしょう。
ちなみに、エクササイズによるリラクゼーションが得られたとしてもそれは副産物であり目的ではなく、結果に期待するのはアクセプタンスではないとも語られています。(参考図書:Russ Harris『The Happiness Trap』)
気づきを重視していると書きましたが、
それを目標とするセラピーではないということです。
私自身、今のところ、マインドフルネスとアクセプタンスは明確に区別して捉えるのは難しく感じています。このあたりは今後勉強していくうちに印象が変わっていく可能性はあります。
ACTにおける「Being Present」とマインドフルネスがどう違うのかについては、次回に持ち越したい(もう少し理解を深めてから)と思います。
さて、いずれにせよ、
受容とはある一定の状態を指すというより、態度・姿勢・構えを含んだ過程(プロセス)のことを指すという見方ができます。
だからこそ定義が難しいということがあるでしょう。
気づき、許し(許容)、あきらめ(諦観)、悟り、....
等、これまで色んな言葉で「受容」を置き換えてみたことがありますが、
結局の所それらの言葉のみではうまく言い得ることができませんでした。
今回のセミナーで講師が、
「アクセプタンスは“覚悟のようなもの”」と仰っていました。
それを聞いて、
「許容」という言葉が持つ甘いイメージや、「あきらめ」という言葉が持つ脱力的・否定的なイメージとはまた別の力強いイメージを与えられた感じがしました。
ただ、言葉の持つ力には必ずメリットとデメリットが有ります。
自分の中で「受容とは~のことである」とイコールで定義づけるのは、
今のところ難しいし、視野を狭めてしまうような気がしているので、
「=」ではなく「≒」でとりあえずは考えていこうと思っています。
これほど捉えづらい概念である「アクセプタンス」を謳っているACTの奥深さ・本質を掴むには、まだ時間がかかりそうです。
ACTに関する書籍のレビューの中には、
「これは根性論だ」「ただの自己啓発」というコメントも見受けられました。
セミナーの講師も「苦境を好きになったり求めること(マゾヒズム)とは違う」と説明を入れるくらい、
勘違いされやすいセラピーでもあるのかもしれません。
0コメント